1968年『フランドルの冬』 芸術選奨文部大臣新人賞
1973年『帰らざる夏』 第9回 谷崎潤一郎賞
1979年『宣告』 日本文学大賞
1986年『湿原』 第13回 大佛次郎賞
1998年『永遠の都』 第48回芸術選奨文部大臣賞
2012年『雲の都』 第66回毎日出版文化賞企画特別賞
いくつも章を受賞された、小説家 加賀乙彦氏の講演会がこの弓町本郷教会で行われました。 講演の内容は、作家であり、精神病医師である加賀先生ならではのお話で、何も知らずにこの講演会に入ってきた方からも講演会後は、 「あの人有名な人?面白い話し方する人だ。感動した!」との感想の声が聞こえてきました。
今日のテーマは、「老いと幸福」ですが、人間はどうしても死ななくちゃいけない。 人間の未来というのは必ず死を迎えることで、死を考えることは実に大事なことなのですが、普通若い時はそういうことは考えない。死との関係を考えていないですが、私の年齢になると考えますね。
私の場合は1969年から1979年まで上智大学文学部教授をしていたことから、 10年上智大学で精神医学、犯罪心理学を教えていたので、カトリックの神父さんと話す機会があったのですが、 もともと科学者で医学を専門にしていたから、神はこの世に存在するのかということに対して、どうも私には納得いかない。 新約聖書でイエスは奇跡を起こすことが、どうも信じられなかった。
ところが、聖書を読むと、イエスさまの御言葉にはバツをつけられない。これには困りまして、
ある時から、何度も何度もイエスさまの御言葉を読んで点数をつけたことがあります。
反対のものはバツ。気になることは三角にして。点数をつけてみました。
ところがやはり点数をつけていくと、イエスさまのおっしゃることはバツをつけられない。
イエスさまのおっしゃることに、はなまるばっかりついてしまう。
だから私の聖書はななまる聖書。それは実に不思議に思いました。
そして、私は私なりに他に哲学書をむさぼり読み、一生懸命読んだのですが、 彼らの文章を読んでると、え?これ絶対ハツというのが実に多いんですよね。
ところが、イエスさまの御言葉にはバツをつけられない。 ある時から、これはいったいどういうことだろうということが、私の苦しみになりました。
それで、当時、私は親鸞にも夢中にもなっていたので、仏教とキリスト教を比較することをしてみました。
私はわりと読書家なので、右にイエスさま、左にお釈迦様の本をを置いて、どんどんどんどん積み上げていったのですが、
ある時、こんなことをして、比較していると死ぬまで解決できない。と思うようになりました。
そしてそれは、パスカルの『パンセ』を読んでた時に、はっとしました。 『パンセ』は、数学者であるパスカルが書き溜めておいた自分の心をさらけだした本ですね。
その中で、「君たちは 天国はあると思うか?」との問いがあり、 その問いに私は、人間がいくら考えてもわからない時はしょうがないから、さいころか何か使ってかければいいと思い、私は天国があるほうにかけてみました。 そして、神父さんと話したりしながら、友人の遠藤周作にも話してみました。
遠藤周作は、10才の時にお母さんと同行してカトリックの洗礼を受けたんですね。
そして、20才の時に神は存在しないのではないかと疑うようになる。 以来、神の問題は彼の主要のテーマになっています。
彼の作品で私が好きなのは、『死海のほとり』晩年の小説ですが、この本を読んでから聖書の中のイエスを考えると、 サマリアの人や病気の人にイエスはなぜ近づくのかと思うようになりました。
イエスは、彼らに「永遠の水を与える。」と言う。
水というのは永遠の霊というもので、永遠の水を与えるイエスは、一銭も金をもたないで旅をしている。 私は以前、はんせん病(らい病)の人と一緒にお風呂に入ったこともありますが、そういう病気の人に対しての差別や隔離をを日本は戦後もずっとやってたんですね〜。
でもイエスはそういう人に近づく。ぜんぜん進んでいる、触ってあげて、平気で病気を治している。 これはイエスという人は大変な人だと思うようになってきました。
そして、聖書の中で、イエスに近づく人は、神を知らない人、神に近づけない人。神に飢え渇く心を持つ人ですね。そういう人がイエスに会うと非常に幸福に変わる。
私は、それからだんだんと新約聖書の読み方が変わってきたのを自分でも覚えて、イエスの話されている話の中のもっと奥に、大変なものが隠されていることがわかるようになり、聖書の読み方がまるで変わってきました。
そして、それぞれ違う四福音書について神父さんに3日間質問していくうちに聞くことがなくなりました。
風のようにふわっと軽くなり、精神の中にも明るい光が差し込んだんですね。 イエスを信じる気持ちになった。
福音書の中では、マタイによる福音書は大天才によって書かれた完璧なものと思います。 ユダのことが書かれているマタイによる福音書は、完璧で、小説のように思い、何回も読み、バッハのマタイ受難曲は何十回も聴きました。
イエスの復活は重要で、これがなければキリスト教ではない。
そして、闇の中にひとり寂しくなったときに遠藤周作に会うと、 「それはね、加賀乙彦よ。お前洗礼受けてないだろう。まず洗礼をうけなさい 僕が一緒に行ってあげるよ」と。
私のゴットファーザーは遠藤周作です。
やっぱりパスカルのように天国があると考えたほうが特ですよね。
もし天国があるなら、無限の幸福が与えられる。幸福とはそういうもので、イエスのまねをしなさいとパスカルが言っている。 「老いと幸福」を考えると、幸福になるには、洗礼を受けられるといい。
そして、何か人の為になることをできればいいですね。
・・・以上、講演会の一部ですが、お話の内容が面白く、この後も質問タイムになりました。
質問は、老いに対しての質問や、小説家としてのドストエフスキーについての質問などに対して、大変丁寧に答えてくださいました。
小説家・精神科医の二つの人生を生きた、加賀乙彦氏 初の語り下ろし自伝は、2・26事件の記憶、陸軍幼年学校時代の思い出から大河小説『永遠の都』『雲の都』の完結。 医学生時代のセツルメント運動、東京拘置所の医務部技官時代、犯罪学・精神医学研究のためのフランス留学、『宣告』のモデル・正田昭との交流、キリスト教の洗礼など、 80余年に及ぶ自らの人生を知られざる様々なエピソードを交えて、語り下ろされた自伝です。 P.236からは講演会でもお話された洗礼について書かれてありました。
私の洗礼名はルカで、私は作家専業となってからも、ずっと医者を続ける気持ちがあったからです。 大学病院に属してはいませんが、当時も今も、ある私立精神科病院で定期的に患者を診ています。
洗礼を受けてから私の生活の基盤になるものが変わりました。なにより、ものを書いていると自然に何らかのかたちで キリスト教が出てくる。ちょうど、水が低いところに流れるような感じで、自然にキリスト教へと流れていく。
もちろん、キリスト教を宣伝するような文章を書いているわけではないのですが、どこか作品の根本のところにキリスト教があるんですね。 私の小説の登場人物のなかには、神を求めて悶える人間が必ずひとりかふたり出てきて、その人たちの苦しみ、迷いがひとつの主題になっています。 私は宗教がなかったら人生は闇だと思っています。これまたパスカルですが。「神はいないと考えれば、これほどつまらない人生はない」。 もちろん信仰の世界を表現することは非常に難しい。逆にいうと、そういう難しいものを書くことに生きがいを感じるわけです。
講演会の中で、遠藤周作さんについて語られたこともあり、それがきっかけで、お二人の本を読み始めた方からのコメントや、小説『宣告』から衝撃を受けた方からの感想など、教会の中でも 様々な話題が飛び交いました。この貴重な講演会が開催されたことを、改めて大感謝したいと思います!
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