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弓町本郷教会 菅原 力 主任牧師のご紹介
菅原 力(すがはらつとむ)主任牧師のプロフィール

名古屋に生まれる。沼田教会(群馬)、高槻日吉台教会(大阪)牧師を経て、2003年4月弓町本郷教会第9代主任牧師として着任。妻と3人の子どもの5人家族。(現在は2人の子どもは関西暮らし。)
趣
味は妻と散歩すること。街を歩くこと。安くて美味しいものを食べること。麺類の料理(うどん、そば、スパゲテイなど)。本を読むこと。(キリスト教関係の
本の他には小説、随筆、文芸評論、マンガ、美術書、辞書etc.)幼稚園の子どもと遊ぶこと。(遊んでもらうこと)気に入った文房具や鞄を見ること(買え
ればなおいい)。
[教会へのお招き] 菅原 力 主任牧師よりメッセージ
弓町本郷教会は今年創立122年を迎えた教会です。イエス・キリストの福音をここ本郷の地で宣べ伝えてきました。聖書はわたしたち一人一人に対する呼びかけの書です。「あなたは愛されているあなた」であり、「あなたが大事だというまなざしで見つめられ続けているあなた」である、ということを聖書は語りかけています。
聖書が語りかけている言葉に出会う場所が教会です。教会は現在の日本社会では特別な場所のように思われています。まして日曜日に礼拝に行くことはさらに特 別な人、と思われています。そういう垣根を教会の側が作ってきたことも事実ですが、教会は決して特別な場所ではありません。あなたが自分自身をしっかりと 受けとめて生きていくことができるようになる場所です。
わたしたちは呼びかけに応えて生きる存在です。親に呼びかけられて子どもが育つように、妻から呼びかけられて夫としてのわたしが生まれ、友人から呼びかけられて、それに応えるわたしが生まれていくのです。
聖書はわたしたちの人生に注がれる神からの呼びかけを語る書物です。この呼びかけに応えるところでわたしたちはわたしを生きるものとなっていきます。
あなたに語りかける呼び声に、一緒に聞いてみませんか。 教会はあなたと呼びかける声の出会う場所です。
[2009年を迎えて] 菅原 力 主任牧師よりメッセージ
新しい年2009年を迎えました。
これから始まる新しい歩みが、このウェブサイトを見てくださっている皆さんにとって、希望と祝福に満ちたものとなりますように。
ルカによる福音書の5章1節から11節までにはシモン・ペトロと主イエスとの出会いが描かれています。その日主イエスはゲネサレト湖畔に立っていたのですが、大勢の群衆が主の言葉を聞こうと押し寄せ、主はシモンの舟を借り、舟の上から岸辺の群衆に向かって語られました。語り終わった時、主イエスはペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」といわれたのでした。ペトロは素直に聞く気持ちにはなれませんでした。夜通し漁をして、何もとれなかったからです。しかしお言葉ですから、網を降ろしてみましょう、とペトロは言い、もう一度漁に出たのでした。するとおびただしい魚がかかり、網が破れそうになったのです。
ペトロはこの時何を考えていたのでしょうか。何を思っていたのでしょうか。捕れなかった魚が船が沈みそうになるほど捕れて、大喜びしている、ということでもないし、主イエスに感謝しているというわけでもないのです。彼は、突然主イエスの足元にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言いだしたのです。ここで主イエスは何も罪のことなど問題にもしていなかったにもかかわらずです。ペトロはいったい何を考えていたのでしょうか。
わたしたちは普段たくさんのものを持って暮らしています。たまに家の整理などをしたり、引っ越し、ということになったりするとなんでこんなにたくさんのものを持ち込んでいたんだと自分でもあきれてしまうぐらいに、いろんなものを持って暮らしています。それはただ単に持ちものということにだけでとどまるものではありません。自分の得た知識や経験というものを持ち込んで、それで自分を判断し、それで仕事や生活のやりくりをしています。それは自分で思う以上に大きなことで、お正月などに実家に帰ったりすると、その家の家事の流儀と自分の家の流儀が違って戸惑うことがあります。自分の経験と自分得た知識とで、これがいいと思ってやっていること、それがよその家に行けば違うのです。人間はそういうものをたくさん持ち込んで、生活している。
ペトロは漁師としての自分の知識や経験から来る判断が当然あった。しかし、人はいつの間にかその自分の得た知識や経験にとらわれて、そこからしか自分が見ることができなくなっていくこともある。ペトロの漁師としての経験や知識から、今日の漁はもう無理だという思いは彼をとらえていたと思うのです。
ペトロの目は、確かにその時捕れたたくさんの魚を見ていたと思います。しかし実際に見つめていたのは、魚ではなく、彼は自分の生き方を見つめていたのではないでしょうか。愕然とした思いで見つめていたのは、自分はまだまだ漁師として未熟だった、だからこんなことがあるのだ、というようなことではなかったと思います。自分の知識と自分の経験とで何とかやっていける、そう思い込んで生きてきた生き方。魚のことなら自分が一番よくわかっている、自分の仕事のことなら自分が一番よくわかっている。自分のことなら自分が一番よくわかっている、そういう生き方そのものを、彼は恥じたのではないでしょうか。だからこそ自分のことを罪深い者です、と言い得たのでしょう。
人間っていうのは不思議なもので、生きていく中で人生というものを自分の手中にあるかのごとく錯覚していくのです。自分を見る視線も、自分が確かだと思い込んでいくのです。しかしペトロがここで経験したのは、そういう自分の持てるもので判断し、自分の中にあるもので決断するものではなく、呼びかけに応えてただそれに従っていく歩み、というか、自分の持てるものに拠らない歩みだったのです。
彼にとって今問題なのは、漁のことではありません。自分の生き方の問題です。主イエスとの出会い。主はわたしを知っており、主はわたしの行く道を示してくださる。自分の歩みは自分で決めるという束縛から解き放たれて、自分の思いを捨てて、呼びかける声に聞いて歩むものが人生なのではないか。彼の心は、今そのことを見つめていたのではないでしょうか。
自分を捨てる、それものすごい決意と決断が必要な、それこそ自分の知識と経験を総動員して決めなければならないことだと思っていました。
しかしそうなのではなく、むしろ人生とは、自分で決めるものではなく、呼びかける声の前で、自分の持てるものを捨てて、歩み出していく、そのことなのではないか、ペトロはこの時感じ始めたのです。
「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そう主イエスにいわれた時、ペトロは納得したのです。ここにこそ、自分のこれからの生き方があるんだ、ということを納得したのです。だから彼は、「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」のです。
捨てることは仰々しい決断のものすることではありません。あるいは未練たっぷりにすることでもないのです。もっと当然のことなのです。おそらくペトロはここで、当然のこととして捨てたのです。その時ペトロの心を占めていたのは、「捨てる」という意識ではなく、人生は主のもの、という納得であったことはまちがいないのです。捨てるということは、人生は自分のものではないということを納得した人の、自然な、自由な姿なのです。その納得が生み出したもの、それが捨てる、なのです。わたしたちの人生は、生活の小さなことの中にも主の呼び声に聞いて、捨てて、従う、ということがはっきりとあるのです。そうでなければ変わっていかないものがあります。
そしてそれは、必ず人生は自分のものではないということに納得した人の生き方としてあらわれてくるのです。他の人から見てどう見えようと、それは献身とか、服従とか、犠牲、というよりも必然的なことなのです。