菅原 力主任牧師 講解説教 使徒信条 (最終回)[ 第18回 - キリストのいのちに生きて ]

加賀乙彦という作家がおられます。すぐれた小説を書かれておられるのと同時に精神科医として「死刑囚の心理」といった本も書いておられる方です。
もうずいぶん前になりますが、加賀さんの書かれた文章で、生と死を扱った文章があり、こういうことを書いておられました。
「死を忘れ、死を遠ざけた文化は、すぐさま萎えてしまう。文化の真の光は、虚無と暗黒に、生まれる前と死後とに支えられているものだ。」
『人間が死というものに取り囲まれているものである、ということをよくわきまえていないと』
短い引用なのでわかりにくいかもしれませんが、加賀さんが言おうとされたことは、人間の文化というものが、生まれる前は虚無の中にあり、死んだ後は暗黒の中にある、人間が死というものに取り囲まれているものである、ということをよくわきまえていないと、本当のものにはならない、といっているのです。
なぜ本物にならないのか。それはおそらく人間というものがただたんに始めと終わりが虚無と暗黒があるというだけでなく、我々が生きていくそのいのちの中に死の力というものが絶えず忍び寄り、入り込んでいるからです。
本当の文化
この死の力、虚無の力に耐えず晒されている人間というものを直視しないものは、本当の文化とはなり得ない、そういうことを加賀さんは言いたかったのではないかと思うのです。
死というものが厄介なのは、それが生の真中で突然やってくることも、何の予告もなしに、年若い者にも襲いかかり、ある意味生の同伴者であるからです。
先日、わたしの知り合いの方の夫・お連れ合いが56歳で癌でなくなりました。ここ数年闘病生活を続けたのですが、彼女からの電話では最後ひじょうに死ぬことを、死そのものを怖がった、という話を聞きました。
わたしは彼女の言葉を聞いて、日本の今の文化は死を忘れようとしていないか、死を遠ざけようとしていないか、ということを改めて強く感じたのです。
それは変な言い方ですが、死というものをはっきり恐れを持って見つめることをくり返し大事にしていくような文化が育たないと、逆に死を目前にした時の恐れは、それまで見ようとしてこなかっただけにとりつく島のない不安なのだと思うのです。
滅びをしっかりと見つめる
死を真実に恐れる、それはとても大事なことです。死は滅びです。その滅びをしっかりと見つめる、そこからです。
わたしたちにとって尚望みを持って立ち上がる道を見いだしていくのは。わたしたちの手の内にない、こちら側にはない、真の望みが、そのなかでこそ顕わになるといってもいいのです。
「永遠(とこしえ)のいのちを信ず」
使徒信条の最後の告白、「永遠(とこしえ)のいのちを信ず」に今朝は思いを寄せ、聖書に聞き、御心に聞きたいと思いますが、いうまでもなく、永遠のいのちを信ず、という告白は、死に取り囲まれた、死の力に絶えず脅かされている中での告白であり、死によっても打ち負かされない「いのち」を告白しているのであります。
しかし考えてみると、聖書は人間が死んだその後どうなるのか、具体的な記述となるとほとんど書いていません。そのことについてもっと詳細に書いてあれば、皆さんにとってももっとわかりやすいのかもしれません。
死んだらこうなって、こうなって、こうなる。聖書はそうしたことをほとんど何も書いていない。
しかしそれは聖書が問題にしている永遠のいのちとは何か、ということに深い示唆を与えるものでもあるのです。
先ほど朗読された聖書の箇所は、永遠のいのちに関連してとてもよく読まれる聖書の箇所ですが、一読してわかりやすい箇所ではありません。
洗礼とは
少し正確に意味をとっていきたいと思うのです。「さて、あなたがたは、キリスト共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」これは少し前の2章の20節「あなたがたはキリストと共に死んで」と呼応して書かれていて、洗礼のことをいっているのです。
キリストと共に死に、キリスト共に復活する、それは、我々が洗礼を受けて、古い罪の自分に死んで、復活の力によって生かされていくことを、語っているのです。3節「あなたがたは死んだのであって、あなた方のいのちは、キリストと共に神の内に隠されています。」
確かにわたしたちは洗礼を受けて、古い自分に死に、新しいいのちに生かされている。だが、その新しいいのちというものが見えるわけでも手で触れるわけでもなく、将来どうなっていくのか、それはいわば隠されているというのです。神の内に。つまり神の世界においては明らかになっているが、今地上を生きる我々には隠されている。
これは大事な表現だろうと思います。わたしたちが洗礼を受けたことで起こっていくことは、まだ完結していないし、これからも完結しないのです。
永遠のいのち、それがいつまでも永続するいのち、という意味でないことは少し考えれば誰でもわかることです。この今のわたしが永続したからといって、それが救いでも何でもないし、むしろおぞましい、と思う人も少なくないはずです。
洗礼を受けたことで起こっていくこと、それはわたしたちが不老不死になったというようなことでなく、キリストと共に死んで、新しいいのちに生きるということです。しかしその全貌が我々にもわかっているわけではないのです。
身体のよみがえりを信ず
先週、身体のよみがえりを信ず、という告白に聞いたのですが、何人かの方から、それぞれ率直な感想を聞かせていただきましたが、身体のよみがえりということ自体、我々の理性が受けとめられることではない。
もちろん理性や自我が受けとめられないことは、真実ではない、とはわたしは思っていませんし、神の力の働きを受けていく場こそがわたしたちの人生ですから、身体のよみがえりも今100%信じることができるかどうかということよりも、神の働きの中でわたし生かされてある、ということを感じ始めていること自体が大事であり、身体のよみがえりもわたしたちには隠されているのです。
しかし間違いなく、イエス・キリストの復活において、それは約束とされている。そのことをわたしたちは神の働きの中にいる自分を受けとめながら感じていくのです。
新しいいのちは、キリストに結びつくこと
くり返しますが、洗礼を受けたことで、わたしたちにおいて起こっていくこと、古い罪の自分に死に、新しいいのちに生きること、その全貌をわたしたちは知らないのです。
全貌は知らなくとも、受け始めているものもあるのです。「あなた方のいのちであるキリストが現れる時、あなた方も、キリストともに栄光に包まれてあらわれてくるでしょう。」キリストこそわたしたちのいのちである、とここで語られています。
新しいいのちは、キリストだ、キリストに結びつくことで、キリストにおいて働いている神の力、それが我々の中で生きて働く。
古い自分、それは じぶんの我が世界の中心であるような
「生きているのはもはやわたしではなく、キリストがわたしの内にあって生きているのである。」というあのパウロの言葉、その新しいいのちに、わたしたちも生き始めている。そのいのちの全貌はキリストが再び現れる終末の時に、本当に顕わになるだろうと言っているのです。
古い自分、それは自分の力で生き抜こうとする自分であったり、自分は自分で生きているのだと思い込んでいる自分であったり、じぶんの我が世界の中心であるような、そういう自分ですよ。
その古い自分がイエス・キリストに出会い、神の恵みを受けて、この自分は自分の力で生き抜くのではなく、神の働きを受けて生かされていくものであり、神の愛と神の深い肯定の中で生かされ、愛するものとされていく、他者と共に歩むことでこの自分は自分なのだ、ということに気づかされていく。
まさしく、古い自分に死に、新しいいのちを生き始めるのです。そのいのちの完成というものは、わたしたちにはわからないけれど、神の約束の中を生かされていくのです。
永遠のいのちを信じるということは
永遠のいのちというのは、神からの関係だ、と言った人がいます。このわたしを愛し、抱きしめ、肯定し、関係の中で生かしめようとする、罪人の罪を負い、新しく生きることを望み、生かしめようとする力、無条件の神の働き、その力の中にある自分を感じ始め受け始めることこそ、永遠のいのちを信じるということなのでしょう。
全貌は隠されている。奥義なのでしょう。しかし終末を仰ぎ見ながら我々は永遠のいのちを受け始めている、と言っていいですし、そのいのちとの出会いの中で、今を生きるということになるのです。
コロサイの信徒への手紙は永遠のいのちのことを語って後、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身につけ、日々新たにされて」歩むことを勧め、愛を身につけなさい、愛はすべてを完成させる絆です、と語るのです。
永遠のいのちに受けて生きることは今をキリストと共に、愛するものとして、他者と共に生かしめられていくことであり、それは最後の神の勝利を信じる、死の力に取り囲まれて尚希望を受けとる、希望の光の射し込む歩みなのです。
キリスト教信仰というのは
18回にわたって、使徒信条講解説教を進めてきました。初めて使徒信条の講解を聞くという方もおられたことと思いますが、これがわたしたち教会が代々にわたって告白してきた信仰であります。
キリスト教信仰というのは、わたしはこう信じていますとか、わたしの信仰とは、このようなものです、というようなことではないのです。そうではなく、聖書がわたしたちに差しだしている神の恵み、神が差しだして下さっているものを、あなたは信じて受けとりますか、ということに対して、わたしは信じます、と応答していくのが信仰なのです。
これほどの恵みを与えて下さっている神に対して、感謝を持って献げなければならない応答
信仰を告白していく、それは今を神の永遠のいのちの力を受けて生きることであり、生かされ、隣人と共に生きることであり、神の福音を宣べ伝えていくことであり、伝道に参加することであります。
信仰の告白、それは他者と共に生きることを妨げるものではなく、わたしたちが生かされている根拠を示すことで、他所と共に他者と対話しながら、歩んでいくために本当の意味で必要なことです。
信仰の告白、それは、なによりもまず、神に対して、これほどの恵みを与えて下さっている神に対して、感謝を持って献げなければならない応答です。恵みへの応答です。
ありがとうございます、神さま、あなたはこれほどの愛と恵みを持ってわたしたちを支え、生かし、守っていて下さる。
アーメン
使徒信条に最後に書き記されているアーメン、わたしたちはこのアーメンを深い感謝と喜びをもって、そして神さまに応答して歩んでいきたいとの祈りと願いを持って、唱和したいと思うのです。
教会の主日礼拝・夕礼拝に是非お越しください。どなたでも、ご出席できます。
また、弓町本郷教会では、キリスト教基礎講座などを行っておりますので、出席されたい方は、教会にお問い合わせください。

