菅原 力主任牧師 講解説教 使徒信条 [ 第1回 - われ信ず ] より

今日からご一緒に使徒信条の講解説教を行います。使徒信条の講解説教は代々の教会がとても大事にしてきたものですが、この教会では初めての方もいらっしゃるでしょうし、そもそも使徒信条って何、という方もおられると思いますので、始めに使徒信条について少しお話ししたいと思います。
使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、
ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府にくだり、
三日目に死人のうちよりよみがへり、
天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、
かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。
我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、
罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。
アーメン。
使徒信条の成立について
使徒信条の成立について、こんな伝説が伝えられています。主イエスが天に昇られた後、弟子たちは主の命令に従って世界の果てまで伝道に遣わされていったのです。そのとき、弟子たちはあらためて自分たちが伝道する中身、何を宣べ伝えるのか、ということを考えました。考えたといっても自分の頭でひねり出すということではなくて、旧約聖書から主イエス・キリストに至る神の福音を受けとめて、福音の中心に流れるものを一人一人持ちより、信仰の内容としてまとめたものが使徒信条、使徒たちの信条と呼ばれるものとなっていった、という伝説です。
これはあくまでも伝説です。しかしこの伝説はとても本質的であり、伝えようとしていることはとても大事なことです。使徒信条が現在の形に定まっていったのは4世紀の後半だといわれています。
しかし使徒信条の誕生は遥か1世紀の弟子たちに遡り、教会の歩みと共に現在の形になったのであります。
信条が生まれる背景には
信条が生まれる背景にはいくつかの重要な要素があったわけですが、福音宣教、伝道のために生まれていったということ伝説は物語っています。さらに、生まれたばかりのキリスト教会はさまざまな教えに囲まれていた。キリスト教を名乗りながら、聖書からはずれた教えや福音とは違うものを福音として語り続ける者たちに対して、聖書を貫く福音はこれである、ということを鮮明にし、「しるし」として高く掲げる必要があったのです。
洗礼式の時に用いられて
さらに、使徒信条もしくはその原型となったものは、そもそも洗礼式の時に用いられていたもので、使徒信条を信じ、告白することで、洗礼を受け、教会の肢となっていった、つまり教会の信仰告白としての必要性もあったのです。
初代教会には
初代教会には新約聖書が生まれる前からさまざまな信仰告白が生まれていきました。その最も短いものの一つが、今日読まれたローマの信徒への手紙10章9節の「口でイエスは主であると公に言い表し」という文言の、「イエスは主である」なのです。そうした信仰告白が新約聖書を生み出していったのですが、聖書から信条が生まれ、信条から聖書と向かう、という循環が教会にはその最初からあったということになります。
4世紀に使徒信条が定まり、教会はその後、さまざまな論争の中でいくつかの信条を告白していきます。
4世紀に生まれたいくつかの信条を基本信条といいますが、その中でもっとも古く、信条と呼ばれるものの基礎の基礎となったのが使徒信条。以来教会はこの使徒信条を告白し続けてきました。
その後たくさんの信条が生まれますが、それらは使徒信条を否定するものではなく、足りないところを補ったり、より詳しくていねいに告白するためのものであって、使徒信条は二千年にわたって告白され続けてきたのです。
今日カトリック教会も、そしてギリシャ正教会も、使徒信条は等しく告白しているのです。その意味で使徒信条はキリスト教を結ぶ旗印であり続けてきたのです。我々日本基督教団の信仰告白はこの使徒信条に前文というか主文をつけたものであり、日本基督教団にとっても使徒信条は大切な信条であり、我々の信仰の骨格を示す信条なのです。
信じるとはどういうことか
さて。今朝は使徒信条の最初の第一句、使徒信条の原文はラテン語なのですが、その原文はわれ信ず、という一言、クレドーという言葉から始まっているのですが、「われ信ず」という言葉から福音に聞きたいと思うのです。
わたしは信じます。天地の造り主、全能の父なる神を信じます、と使徒信条は告白するのですが、そもそも信じるとはどういうことなのでしょうか。キリスト教基礎講座で「信じるとはどういうことか」というテーマで3回にわたってお話ししたことがありますが、そうしなければならないほど、信じるという言葉は誤解に満ちた言葉になっている。
例えば、クリスチャンではない人たちはクリスチャンのことを信心深い人たちだと思っています。信仰心の厚い人だと思っている。だから、クリスチャンに向かって、「わたしはあなたのように神を信じるような殊勝な心もなく、信仰心が薄くて」というようなことを言う。しかしこれは全く単純な誤解。しかしそれだけに根が深いとも言えるのです。
聖書が語る信仰とは
聖書が語る信仰とは、信仰心のことでも、信心のことでもない。信仰心が厚いかどうか、ということと、聖書の語る信仰とは全く関係ない。聖書が語る信仰とは、人間に迫ってくる神の愛、真実、恵みを人間が受けとめ、承認することなのです。
信仰において大事なこと中心となっていること
つまり信仰において大事なこと中心となっていることは、わたしの信心ではなく、わたしに迫ってくる神の愛、神の真実、神の恵み、それこそが大事なのです。信じる対象こそが大事ということです。はっきりいえば、我々が信心深いと思っている時も、不信仰だと思っている時も、そんなことに関係なく、神は我々に迫ってくる、その神の働きこそが信仰の決め手なのです。
教会の門を叩いたら、まずわかってほしいのは、実はそのことです。ここを受けとめなければ、最初にボタンを掛け違えていきますから、話がかみ合わない。教会の人でも、「わたしは不信仰で、信仰心が薄くて、なんじゃらかんじゃら、」という人がいますが、あれはボタンの掛けまちがい。
信じるということには誤解がつきまといやすいのです。
確かに、信じるということには誤解がつきまといやすいのです。例えばわたしたちが人を信じるという場合、その相手の人を信じているのか、それともその相手を信じている自分を信じているのか、区別がつきにくいものです。これは愛においても同じことが言えて、わたしたちが誰かを愛するという場合でも、相手を愛しているのか、愛している自分を愛しているに過ぎない場合も多いのです。
「信じる」ということが誤解されてきたのにはそれなりの必然性があるのですが、しかしいずれにせよわたしたちはここで一度きちんと整理したい。
聖書が語る信仰とは、我々の信仰心のことでも信心のことでもなく、迫ってくる神の真実を感謝して承認する行為なのです。わたしがこれまでくり返してきた言葉で言えば、信仰は向こうからの呼びかけに聞いて、応答させられていくそういう人間の行為です。
信仰は、対象によって引き起こされていくもの
だからいつでも信仰は、対象によって引き起こされていくものなのです。とすれば、我々にとって信仰とは、自分の勝手な思い込みとか、わたしはこう信じます、というようなことではないことは明々白々です。対象が、相手がわたしにどう働き関わってくださっているか、ということを知ることなくしては、信仰は生きて働かないからですよ。
自分の中にある不確かで不安定な信心のようなもの、それが信仰を形づくっていくのではない。信じるといっても、愛するといってもわたしたちの中にあるものは貧しい。貧しいというだけでなく、偽りが多い。
家族を愛している、といっても多くの場合自分を愛しているのかもしれない。それぞれ自分にとって都合のいい親や子どもを求めて、そうならないと苦しんでいるのは家族への愛も自己愛の延長だからかもしれません。
しかしそれなら自分を本当に心から愛しているかといえば、そうも言えない自分がいます。自分自身を愛せなくて回りに当たり散らすということもあるのです。友人との関係も、損得で見つめている自分がいることに、ある種のやりきれなさを感じながら、そこから自由になることはできないのです。自分の中にどうしようもない嘘があり、人にも偽りがある。そのことをわたしたちは体験的に知っているのです。
信じる、といってそれだけがこういう自分と無関係に、立派なものになるわけではない。そんなこともういいかげんにわかっても良さそうなものなのに、信仰に関しては、醜悪な自分を棚に上げて自分の作ったあるべき信仰のようなものにあこがれる。
そしていつも不十分な自分の信仰、というところに自分を安住させていく。しかし我々の頭で考えたあるべき信仰というようなものがどこかにあるわけでなく、信仰は対象によって生きる、向こうからの呼びかけ、迫ってくる神の愛によって生きるのです。
朗読された聖書の箇所には
朗読された聖書の箇所にはこうあります。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」ここに書かれていることは、おそらく皆さんにとって初めからよくわかるものではなかったはずです。人は心で信じて義とされ、ということはともかく、口で公に言い表して救われる、という部分はなぜなのか、と思われる方も少なくないのではないでしょうか。信じるということは心の中の問題と思っている人が多いからです。
確かに信じるということは心の中の問題でもあります。しかし、口でイエスは主であると公に言い表して救われるのです。
信仰は向こうからの呼びかけによって起こるもの
なぜなら我々にとっての信仰は向こうからの呼びかけによって起こるものだからですよ。迫ってくるものに対して、応えるということによって初めて具体化していくものなのです。
神は呼びかけて、わたしが応えることを待っていて下さる方です。わたしたちだってそうです。大切な人に呼びかける、応えてくれなければ、何度でも呼びかける。その呼びかけに相手が応えてくれたところから対話が始まるのです。信仰は応答を生み出していくもの。告白を生み出していくものです。
迫ってくるものの内実をしっかり受けとめる
信仰は何となく神を信じるとか、何となく、救い主はいる気がする、というような性格のものではありません。向こうから迫ってくるもの、その迫ってくるものの内実をしっかり受けとめる、受けとめたものを感謝して告白する。信仰はそうで生き始めていくものです。 代々の教会は、福音の内実を使徒信条として告白し続けてきました。それはまことに短い信条ですが、ここに聖書全巻を流れる、神の真実を言葉にしています。この信仰こそ教会が二千年にわたって告白し続けてきた信仰です。
使徒信条は「われ信ず」「わたしは信じます」で始まっています。しかしその場合の「わたし」とは、教会が告白し続けてきた信条をこのわたしも信じるものとさせられてきました、というわたしであります。
神、イエス・キリスト、聖霊、なる三位一体の神、わたしたちに迫ってきて下さる神。この神の真実の中にある自分を受けとめて、感謝して、「わたしは信じます」という告白からわたしたちの新しい歩みを始めていきましょう。

