弓町本郷教会 菅原 力 主任牧師のご紹介

名古屋に生まれる。
群馬、大阪の教会の牧師を経て、弓町本郷教会牧師に就任。
趣味は本を読むこと。キリスト教の本を読むことは仕事であると同時に、最も深い関心事。キリスト教関係以外では小説、文芸批評、哲学、漫画、辞書、随筆、画集、好きなジャンルはいろいろ。安くて美味しいものを食べること。(高くてうまいのはあたりまえ)。歩くこと。(特に妻と一緒に目的なく歩くこと)。子どもたち(幼稚園や遊ぼう会、教会学校にきている子どもたち)と遊ぶこと。家族は妻と三人の子ども。(三人とも社会人です)。
[2011年3月13日(日)東日本大震災後の礼拝における祈り] 菅原 力 主任牧師より
神さま、あまりに大きな地震の中で、茫然としています。自然の猛威の前で唖然としています。
神さま、今被災地で助けを求めている人々をお守りください。支えてください。不安な時間を過ごしている人、救援の手を待ち望んでいる人、孤立させられている人たち、守ってください。
支えてください。生きる力を与えて下さい。
その救助活動に当たる人たちを支えてください。すさまじい混乱の中で、人々の救援を指揮する人々をお守りください。支えてください。
遠くはなれて、被災地にいる家族や友人を思っている人たちを支えてください。その祈りをあなたの御旨の中に覚えて下さい。
神さま、すでにこの地震で死亡された方々が実に多くおられます。なくなられたすべての人、その一人一人を、神さま、あなたの御手の内に憩わせ、永遠の安らぎの中においてください。
これから始まっていく、復興の道のりを、わたしたちが互いに協力しながら、支えていくことができるように導いて下さい。
神さま、この時、あなたが共にいて下さることを、イエス・キリストが共にいて下さることを信じる信仰と勇気をわたしたちに与えて下さい。
このお祈りをイエスさまのお名前によって祈り願います。アーメン。
[2011年3月13日(日)東日本大震災後の主日礼拝説教より] 菅原 力 主任牧師より
『救い主は待っておられる』
今朝わたしたちは今なお継続している未曾有の大地震の中にあってこの礼拝堂に集められてきました。この地震の中にあって、神を仰ぎ、神を礼拝するためです。
金曜日にわたしたちが経験した恐怖は今も心と体に記憶されていますが、甚大な被害を受けた地域や、命を失った人々のことを思うと、絶句の他ないわたしたちです。さらに原子力発電所をめぐる深刻な事態もおこってきているのです。その現実の中で、わたしたちは神の御言葉をいただきたい、神の御言葉を示されたいと願って神の御前に立っています。わたし自身その一人なのです。
今朝、わたしたちは先週予告した聖書箇所のほかに詩篇46編を朗読しました。これは、わたし自身が余震の続く中で祈りの中で示された主の言葉です。そしてその詩篇46編に聞く中で、ルカの御言葉に聞きたいと願っています。
さて。詩篇46編は詩編の中でももっとよく知られている詩の一つです。こう詠い出します。
神はわたしたちの避け所、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けて下さる。
苦難のときとはどういうときなのかといえば、3節4節にあるように「地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移」り、「海の水がさわぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震える」、そのようなときだというのです。大地震のときだと読む人もあれば、天地創造のはじめの混沌のときに帰るようなすさまじいときと読む人もあるのですが、いずれにせよ、確かだと思っていた大地が揺らぎ、わたしたちの根幹が震われるときなのです。
そのとき、神はわたしたちの避け所、砦、必ずそこにいまして助けて下さる、というのです。この2節の言葉なのですが、神は我が避け所、また砦ということは、わたしたちが避難所、砦に行って守られるのであり、わたしたちが何者かになるのではない、ということを告白している言葉です。
神に支えられて、わたしが力強いものになるとか、へこたれないものになるとか、いっていないのです。むしろこの告白は、苦難のときわたしたちはいやが上に自分の無力を思い知らされる、そうですよ、大地震や、山々が震えるようなときに、有力な人などどこにもいないのです。無力なのです。その無力の中で、神によってのみ守られ、覆われるということを受けとめている者の告白がここにはあるのです。
「苦難のとき、必ずそこにいまして助けて下さる。」これはもう少し直訳してみると、「苦難の中で確実に見いだされる助け」という文章です。苦難の中で、確実に見いだされる救い、それが神なのだという告白です。
苦難というのは、前途が見いだせない状況のことです。見通しが立たない。しかしその苦難の中で必ず、確実に見いだされる救い、それが神なのだという告白です。
神なのだということは、わたしの中にはない、ということです。大地は変貌し、この天地が創造のはじめのときの混沌状態に、再びのみ込まれてしまうような、大きな激動が起こるとも、神はわたしたちの避け所、砦、苦難のとき確実に見いだされる助け。
なぜなら、8節「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」万軍というのはあらゆる軍隊という意味ではなく、天使の大軍のことで、万軍の主とは天使の大軍を率いる世界のまことの支配者、という意味です。
その主がわたしたちと共にいます、インマヌエルの主だと告白しているのです。苦難の中で確実に見いだされる救い、それは苦難の中で、インマヌエルの主として見いだされる主だというのです。わたしたちの苦難の中で、わたしの苦難を負い続ける万軍の主がおられる。詩人はそう告白するのです。
地震というあまりに巨大な自然災害をどう受けとめたらいいのか、という思いの中にわたしたちはいます。自然災害に対して、聖書の中にいろいろな文言があります。
ただそれは決して一色などではなく、実に多様です。ただわたしたちはこの災害には、神からのこんなメッセージが込められているといったたぐいの、根拠のない意味づけをするべきではなく、わたしたちが生きている被造世界、神によって作られた自然とは、このような地震や地殻変動や、さまざまな働きを含んだものなのだということは謙虚に受けとめなければならないと思います。
人間にとって美しい自然とか、人間にとって都合のいい自然、利用し、人間が搾取するに都合のいい自然だけでなく、人間にとって様々な脅威を含む自然その総体がわたしたちの生きている被造世界であり、自然であるということを示されています。
さらに、自然災害に限らず、人為的な災害に対しても、その被害が大きければ大きいほど「神はどこにおられるのか」というようなことを人はいうものです。
何事もないとき、「神はどこにおられるのか」などとは決していわない人たちでも、災害が起これば「神はどこに」と言い出すのです。しかしそれは決してばかばかしい問いではなく、人間存在の深いところからでてきているものなのです。
詩編46編の詩人は、その問いを知っている人です。どんな苦難を経験したのか、想像を絶するような苦難に直面し、幾重にも苦難の中に佇みながら、こう詠っているのです。
神はわたしたちの避け所、わたしたちの砦。苦難の中で、確実に見いだされる救い。万軍の主はインマヌエルの主として、苦難の中で確実にわたしを負ってくださる主だ、と告白しているのです。苦難、それは人間の生死です。生においても、死においても、万軍の主はインマヌエルの主として、わたしたちを負ってくださっているのだ、という信仰を告白しているのです。
それは紛れもなく、イエス・キリストにおいて現された神の真実です。紛れもなく、十字架のイエス・キリストにおいて現された神の真実です。苦しんでいるあなたの足下に十字架のイエス・キリストがおられるということです。なぜこの人が災害で死ななければならないのか、わたしたちにはついにはわからない死をも、キリストは負って十字架に架かっておられるのです。
神は十字架に架かって苦しみを負ってくださっている。詩人はそれを受けとっていったのです。
ルカ福音書13章の1節から9節にはピラトによって殺されていった人たち、シロアムの塔が倒れて死んだ人たちに対して、罪が深かったからだという根も葉もない噂を流す人たちがいた、ということが背景にあります。
しかもそれに同調する人たちもいたのです。それに対して主イエスは、とんでもない、エルサレムに住んでいるほかの人たちより死んだ人たちが罪深かったからなどでは断じてない、といわれたのです。その上で主イエスは「むしろお前たちが本当に悔い改めないのなら、お前たち全員同じように滅びる。」といわれたのです。
そして6節から一つの譬え話をされる。それは主イエスがわたしたち一人一人の悔い改めを待っておられるということの譬え話なのです。
悔い改めというのは、心を入れ替えて真人間になるとか、以後もう少し真面目なクリスチャンになります、というようなことではない。神はわたしたちの避け所、砦。苦難の中で確実に見いだされる救い主。万軍の主は、インマヌエルの主として、苦難の中で、わたしたちの生死の中で、確実にわたしを負ってくださる主だ、ということに気づかされていくということ、それが悔い改めです。
わたしたちは否応なく遭遇する苦難の中で、無力です。しかし、その中であえぎながらも、叫びながらも悔い改めるということが求められているのではないか、と思うのです。これはわたしたちの中の声ではなく、聖書がまさに語りかけるものであろうと思います。わたしたちは醒めて、苦難の中でインマヌエルの神に立ち返っていく。
「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々に崇められ、この地で崇められる。」苦難の中で、人は自分のしなければならないことや、自分の力でしなければならないことにもちろん心が向いていくのです。確かにしなければならないことはたくさんあるのです。
しかし、この詩人は、力を捨てよ、といいます。あなたたちは静かにして、わたしが神であることを知りなさい、という言葉です。
この苦難の中で、あなたたちは静かにして、わたしがインマヌエルの神であることを知りなさい、あなたたちの生死と共にある神であること、そのことに立ち返りなさい。
そのことを信じて、キリストに背負われているわたし自身とこの世界を受けとめながら、歩んでいきなさい、主はそう言われる。今日は受難節の第1主日です。主イエスの受難がこの世界の底にあることを受けとめて、歩んでいきたいと思うのです。
[教会へのお招き] 菅原 力 主任牧師よりメッセージ
弓町本郷教会は、1886年より、イエス・キリストの福音をここ本郷の地で宣べ伝えてきました。聖書はわたしたち一人一人に対する呼びかけの書です。「あなたは愛されているあなた」であり、「あなたが大事だというまなざしで見つめられ続けているあなた」である、ということを聖書は語りかけています。
聖書が語りかけている言葉に出会う場所が教会です。教会は現在の日本社会では特別な場所のように思われています。まして日曜日に礼拝に行くことはさらに特 別な人、と思われています。そういう垣根を教会の側が作ってきたことも事実ですが、教会は決して特別な場所ではありません。あなたが自分自身をしっかりと 受けとめて生きていくことができるようになる場所です。
わたしたちは呼びかけに応えて生きる存在です。親に呼びかけられて子どもが育つように、妻から呼びかけられて夫としてのわたしが生まれ、友人から呼びかけられて、それに応えるわたしが生まれていくのです。
聖書はわたしたちの人生に注がれる神からの呼びかけを語る書物です。この呼びかけに応えるところでわたしたちはわたしを生きるものとなっていきます。
あなたに語りかける呼び声に、一緒に聞いてみませんか。 教会はあなたと呼びかける声の出会う場所です。
バックナンバーメッセージ [ 菅原 力 主任牧師より ]
[2009年1月のメッセージ]
これから始まる新しい歩みが、このウェブサイトを見てくださっている皆さんにとって、希望と祝福に満ちたものとなりますように。
ルカによる福音書の5章1節から11節までにはシモン・ペトロと主イエスとの出会いが描かれています。その日主イエスはゲネサレト湖畔に立っていたのですが、大勢の群衆が主の言葉を聞こうと押し寄せ、主はシモンの舟を借り、舟の上から岸辺の群衆に向かって語られました。語り終わった時、主イエスはペトロに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい。」といわれたのでした。ペトロは素直に聞く気持ちにはなれませんでした。夜通し漁をして、何もとれなかったからです。しかしお言葉ですから、網を降ろしてみましょう、とペトロは言い、もう一度漁に出たのでした。するとおびただしい魚がかかり、網が破れそうになったのです。
ペトロはこの時何を考えていたのでしょうか。何を思っていたのでしょうか。捕れなかった魚が船が沈みそうになるほど捕れて、大喜びしている、ということでもないし、主イエスに感謝しているというわけでもないのです。彼は、突然主イエスの足元にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」と言いだしたのです。ここで主イエスは何も罪のことなど問題にもしていなかったにもかかわらずです。ペトロはいったい何を考えていたのでしょうか。
わたしたちは普段たくさんのものを持って暮らしています。たまに家の整理などをしたり、引っ越し、ということになったりするとなんでこんなにたくさんのものを持ち込んでいたんだと自分でもあきれてしまうぐらいに、いろんなものを持って暮らしています。それはただ単に持ちものということにだけでとどまるものではありません。自分の得た知識や経験というものを持ち込んで、それで自分を判断し、それで仕事や生活のやりくりをしています。それは自分で思う以上に大きなことで、お正月などに実家に帰ったりすると、その家の家事の流儀と自分の家の流儀が違って戸惑うことがあります。自分の経験と自分得た知識とで、これがいいと思ってやっていること、それがよその家に行けば違うのです。人間はそういうものをたくさん持ち込んで、生活している。
ペトロは漁師としての自分の知識や経験から来る判断が当然あった。しかし、人はいつの間にかその自分の得た知識や経験にとらわれて、そこからしか自分が見ることができなくなっていくこともある。ペトロの漁師としての経験や知識から、今日の漁はもう無理だという思いは彼をとらえていたと思うのです。
ペトロの目は、確かにその時捕れたたくさんの魚を見ていたと思います。しかし実際に見つめていたのは、魚ではなく、彼は自分の生き方を見つめていたのではないでしょうか。愕然とした思いで見つめていたのは、自分はまだまだ漁師として未熟だった、だからこんなことがあるのだ、というようなことではなかったと思います。自分の知識と自分の経験とで何とかやっていける、そう思い込んで生きてきた生き方。魚のことなら自分が一番よくわかっている、自分の仕事のことなら自分が一番よくわかっている。自分のことなら自分が一番よくわかっている、そういう生き方そのものを、彼は恥じたのではないでしょうか。だからこそ自分のことを罪深い者です、と言い得たのでしょう。
人間っていうのは不思議なもので、生きていく中で人生というものを自分の手中にあるかのごとく錯覚していくのです。自分を見る視線も、自分が確かだと思い込んでいくのです。しかしペトロがここで経験したのは、そういう自分の持てるもので判断し、自分の中にあるもので決断するものではなく、呼びかけに応えてただそれに従っていく歩み、というか、自分の持てるものに拠らない歩みだったのです。
彼にとって今問題なのは、漁のことではありません。自分の生き方の問題です。主イエスとの出会い。主はわたしを知っており、主はわたしの行く道を示してくださる。自分の歩みは自分で決めるという束縛から解き放たれて、自分の思いを捨てて、呼びかける声に聞いて歩むものが人生なのではないか。彼の心は、今そのことを見つめていたのではないでしょうか。
自分を捨てる、それものすごい決意と決断が必要な、それこそ自分の知識と経験を総動員して決めなければならないことだと思っていました。
しかしそうなのではなく、むしろ人生とは、自分で決めるものではなく、呼びかける声の前で、自分の持てるものを捨てて、歩み出していく、そのことなのではないか、ペトロはこの時感じ始めたのです。
「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」そう主イエスにいわれた時、ペトロは納得したのです。ここにこそ、自分のこれからの生き方があるんだ、ということを納得したのです。だから彼は、「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」のです。
捨てることは仰々しい決断のものすることではありません。あるいは未練たっぷりにすることでもないのです。もっと当然のことなのです。おそらくペトロはここで、当然のこととして捨てたのです。その時ペトロの心を占めていたのは、「捨てる」という意識ではなく、人生は主のもの、という納得であったことはまちがいないのです。捨てるということは、人生は自分のものではないということを納得した人の、自然な、自由な姿なのです。その納得が生み出したもの、それが捨てる、なのです。わたしたちの人生は、生活の小さなことの中にも主の呼び声に聞いて、捨てて、従う、ということがはっきりとあるのです。そうでなければ変わっていかないものがあります。
そしてそれは、必ず人生は自分のものではないということに納得した人の生き方としてあらわれてくるのです。他の人から見てどう見えようと、それは献身とか、服従とか、犠牲、というよりも必然的なことなのです。

