洗礼の喜び クリスチャン( たかはしあきこさん)より
クリスチャンになる前は聖餐というものがとても苦手でした。聖餐がある日はできれば礼拝には行きたくないとさえ思っていました。自分が聖餐を受けるわけではないのに、苦手というのも妙な気がしますが…。
聖餐が行われるとき、まわりのクリスチャンたちは、神妙な顔をしてパンを食べ、ぶどう酒を飲みます。
そのとき私は、そのようなクリスチャンたちの姿を見ていて、「私とは何かが違う、何かが違う」という思いでいっぱいでした。
聖餐が終わり、礼拝が終わってからは、いつものように教会員の方とおしゃべりしたり、食事を頂いたりするのですが、聖餐の間だけは、見えない垣根の外に追いやられたような感じがしていました。
聖餐が行われるとき、まわりのクリスチャンたちは、神妙な顔をしてパンを食べ、ぶどう酒を飲みます。そのとき私は、そのようなクリスチャンたちの姿を見ていて、「私とは何かが違う、何かが違う」という思いでいっぱいでした。聖餐が終わり、礼拝が終わってからは、いつものように教会員の方とおしゃべりしたり、食事を頂いたりするのですが、聖餐の間だけは、見えない垣根の外に追いやられたような感じがしていました。
そのような思いに苛まれるのが何故なのか、クリスチャンになる前は分かりませんでした。ただ、単にのけ者にされたから、というようなものではないとは感じていました。
しかし、洗礼を受けて、クリスチャンになった今は、何が原因だったのかが分かるような気がします。それは、私が神様の救いの手から逃げていたからです。
旧約聖書のヨナ書に次のような話があります。ヨナは、神様からニネベの民に神様の御言葉を伝えるように命じられたにもかかわらず、逃げ出してしまいます。しかし、逃げ込んだ先の船が大嵐に遭い、ヨナは責任をとらされ、他の乗組員から海に投げ出されてしまいます。けれども、ヨナは、神様の救いにより、巨大な魚に呑み込まれて一命をとりとめます。そして、神様に感謝の祈りを捧げ、最終的にはニネベの民に主の言葉を伝えに行くのです。
神様の命令から逃げられると思っていたヨナ、洗礼を受ける前の私は、このヨナのようであったと思います。「教会に通ってさえいれば、神様のお話を聞くことができる、それでいいじゃないか、洗礼を受けてクリスチャンとなれば、神様からは逃げられない。」このように、都合のいいときだけ神様の話を聞いて、都合が悪くなれば神様から逃げたいという気持ちが私にはあったのです。
少しでも洗礼に興味を持ったのであれば、それは神様が、永遠の救いへと私を招くご決断を、既にされているということなのだと思います。聖餐を受けるクリスチャンたちと、自分が「何かが違う」と感じていたのは、彼らが、神様の救いの手から逃げずに、しっかりと握り返した人たちであること、私が神様の救いの手を伸べられたにもかかわらず、逃げまわっている者であること、その歴然とした差を無意識のうちに感じていたからだと思います。
しかし、ヨナが神様から逃げられなかったように、「神様から逃げられる」というのは私の勝手な思い込みなのです。神様は私の思いを超えてそこに「在る」存在なのだから、逃げられるわけはないのです。実際、私は学生時代に神様から離れ、教会から離れていた時期があるのですが、神様に導かれるようにして教会へと呼び戻されました。もう逃げようなどとは思わずに、神様の救いの手を私も握り返そう、そのような思いから洗礼を受けることにしました。
洗礼を受けた多くの方が言うように、洗礼を受けたからといって突然清らかな人間になるということは、私もありませんでした。しかし、神様から救いの手を差し出され、その手を私も握り返したことが、私の中で大きな喜びとなっています。しかも、そのことは私の心の中の出来事ではなく、洗礼を受けたという確固たる事実として私の中にあります。そして、その喜びを、日々の礼拝の中で、聖餐を受ける中で、思い出し、はっきりと感じることができます。
洗礼を受けることの最大の喜びは、神様から救いの手を伸べられ、それを握り返し、永遠に生きる者とされたこと、そのことを洗礼という確固たる事実として受け取ることができることにあるのだと思います。