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「神様との出会い」  クリスチャン( T.M さん)より

洗礼について(photo)

私は物心ついた時には教会に通っていました。そういうとクリスチャンホームで育ったのだろうと思われるのですが、私の育った家庭はクリスチャンホームではありません。

親戚にもクリスチャンはいないのです。それなのになぜそんなに小さな頃から教会に通っていたのか、自分でもよくわからないのですが、近所に教会がたくさんあったためかもしれません。

「神様との出会い」

家から歩いて5分くらいの距離に4つの教会があり、庭や駐車上、そして、教会のホールなど、教会全体が私たちの遊び場でした。また、私が通っていた教会では土曜日に図書館が開かれ、私はそこで絵本を読んだり友達と遊んだりしていました。当時の私にとって、教会は土曜日の図書館、日曜日の幼稚園といった感じで、神様のお話を聞く場所というよりむしろ遊びに行く場所だったかもしれません。

教会学校に通い始めた具体的なきっかけは覚えていませんが、私や両親にとって教会が身近な存在であったことはとてもラッキーだったと思います。

選び選ばれた関係

中学からミッションスクールに通うことになりました。今でも覚えているメッセージがいくつかあります。一つは入学説明会の時の話です。

校長先生は「私たちの学校を選んでくれてありがとう。あなたたちはこの学校を選びました。そしてこの学校もあなたたちを選びました。ですから、我々は平等な関係なんです。」とおっしゃいました。さらに校長先生は「でも、本当はあなたたちや私たちがお互いを選んだわけではないのです。

聖書には『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。』(ヨハネの福音書15章16節)と書いてあります。

神様があなたたちを選び、神様がこの学校を選んでくださった。ですから、そういう意味で、本当に私たちは平等な関係なのです。ですから、安心して入学してきてくださいね。」とおっしゃいました。

それまでは神様を信じていない人が多数派である事実を寂しく思っていたので、あぁ私が神様を選んだのではなくて神様が私を選んで下さったんだ!と心強く感じました。

神様とのホットライン

中学と高校では毎朝の礼拝から一日が始まりました。まだ眠たいし、毎日繰り返される英語の小テストの勉強をしていないことが多かったし、そもそも人の話を集中して聞くということが苦手だったので礼拝は私にとって決して待ち遠しい時間ではありませんでした。

正直なところ退屈でした。ある日、聖書の先生が「お祈りは神様とのホットラインなんです。だから、周囲のことは忘れて自分と神様の二人の時間として、神様と対話してください。」とおっしゃいました。先生があまりに何度も同じことを言うので、いつからか、私は神様との対話であることを意識してお祈りしてみることにしました。

毎朝礼拝で「今日は神様に喜ばれる人として生きることができますように。神様を悲しませることが少しでも少なくなりますように」とお祈りする。そして、夜寝る前に一日を振り返ると、「友達が手伝って欲しそうな様子だったけど忙しかったから見て見ぬふりをしてしまった」とか、「両親や外で雪かきをしていたのを知っていたけど、外が寒そうだから気がつかないふりをしてしまった」とか必ず神様を悲しませることが見つかる。だから、布団に潜って「神様、今日はこんなことをして、神様を悲しませてしまいました。ごめんなさい。どうか、明日は神様に喜ばれる人となれるよう、力づけてください。」とお祈りする。そうやって、毎日祈りを通して神様とゲームをしていたように思います。

受け身で参加していた礼拝は退屈でしたが、積極的に神様と対話することにより礼拝のメッセージを神様から自分へのメッセージとして受けとることができるようになったように思います。

礼拝離れ

幼稚園の頃から大学生まで同じ教会に通っていたので、牧師や教会員の皆さんはいつも暖かく見守ってくださって、私は教会をもう一つの家、教会の皆さんをもう一つの家族のように感じていました。大学を卒業して実家を離れて大学院に進学することになり、新しい教会に行ってみると、もちろん知っている人は誰もいませんし、讃美歌のメロディーは今までと同じなのに歌詞が違うことに違和感を覚え、どこの教会に行ってよいのかわからなくなってしまい、それから数年間教会から離れてしまうことになりました。

そうした生活の中で、私は自分にとっての初めての試練に出会いました。命に関わることではありませんし、とても小さなことなのですが、それまで多くの人たちの愛情の中で何不自由なく過ごしてきた私にとって、がんばっても前に進めない、どうしたら改善の方向へ向かうのかわからないという状況は非常に苦痛でした。

私はなんとか投げ出さず試練を超えることができましたが、周囲では似たような困難に耐えきれずに諦めしまった友人が何人もいました。

そのような友人の姿を何人も見て、こんなに弱い私が困難を乗り越えることができたのは、私に信仰があったからに違いないと確信するようになりました。

中学高校時代の朝の礼拝で、校長先生が選ぶ聖書の箇所は決まって「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマの信徒への手紙5章3〜5節)でした。

当時、苦難に直面したことがなかった私には、繰り返しこの箇所が選ばれる理由がわかりませんでしたし、心動かされたという記憶はありません。しかし、実際に苦難に直面した時、この箇所がいつも頭に浮かび、前向きに忍耐することができました。

また、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイによる副音書第7章7節〜8節)を思い出して、投げ出すのではなくて、求めなくてはいけないんだ、と心を強くもつことができました。

困難に耐え忍ぶのは決して楽なことではありませんが、聖書のメッセージはそのメッセージに出会った時に限らず、必要な時に私を支えてくれるんだということを体感した貴重な体験でした。

教会に戻る

礼拝に参加しない時期も、神様を忘れたわけではありませんでしたし、教会から離れているという意識はあまりありませんでした。教会に行かなくてもお祈りして神様とのホットラインで対話はできるので、ただ、礼拝を休んでいるだけで、神様につながっていると考えていました。

しかし、礼拝を休んでしばらくすると、教会に行きたくてしかたがなくなり、弓町本郷教会の礼拝に参加するようになりました。少し緊張して門をたたいた弓町本郷教会では牧師をはじめ、伝道師の先生や教会員のみなさんが暖かく、喜んで迎えてくれました。

讃美歌の歌詞は知っているものとは異なり、初めは違和感がありましたが、それでもみんなで讃美歌を歌う心強さに、涙が出る思いでした。ある日の礼拝説教で、牧師先生は迷える羊のたとえ話をされました。

「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。見つけたら、大喜びでその羊をかついで、帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカによる福音書15章〜17節)というイエス様がされたたとえ話の中でも有名な箇所でそれまでにも何度も聞いたことがありました。

しかし、それまで羊のたとえ話であった聖書の箇所がまるで、神様と私の話のように聞こえてなりませんでした。

礼拝説教で、牧師から、子羊はとても目が悪く、自分が迷子になっていることにさえ気がついていない。羊飼いの心配なんて全く考えず、周囲が見えずに夢中で草を食んでいる。でも羊飼いはたった一匹の子羊さえ見捨てずに捜し求めて、見つけたら大喜びしてくれるんだとおっしゃっていました。

私は礼拝を休んでいた頃、神様とつながっていると思い込み、迷子であったことにさえ気がついていなかったのです。教会に行きたくなってきたから教会に行ってみようかなと思って弓町本郷教会の門をたたいたと思っていましたが、本当は神様が私を見つけて連れ戻してくれたのだと思います。

日曜日ごとに、普段接することのない幼稚園の子供たちや、おじいちゃん、おばあちゃんたちとお話することができ、今はまたもう一つ新しい家ともう一つの家族を見つけたような気持ちです。

教会に行ったことがないけれど、教会に興味がある方、クリスチャンとしての生き方に興味がある方は一度教会に行ってみることを強くお薦めします。

もう、神様に選ばれているからです。聖書の教えを全て理解できないと信じない。と思っている方も、教会に行って牧師や教会員の人たちの話を聞いてみる。そうすると、クリスチャンの人たちが他の人たちと変わらずに悩みを抱え、不安を抱えて生きていることがわかると思います。

でも、神様を信じて生きるクリスチャンは、八方ふさがりに感じられる時でも一人じゃないということを知っている。そして、そしてその試練は乗り越えるためのものであり、くじけるためのものでないということを知っている。という点で強いと思います。

だから、一人で乗り越えられない困難を乗り越えられる。神様を信じなくても不自由なく生きて行けるかも知れません。

でも、信じて生きる人生を選んでも決して損することはないと思います。損をすると思ったら信じるのをやめればいい。

ですから、勇気を出して信じてみる。そうするだけで、今までより前向きに、強く生きていくことができると思います。

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