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フランスの大きな土の穴  クリスチャン( 鈴木基子さん)より

洗礼について(photo)

一般に私たちは洗礼というと、生き方や考え方に大きな変化を経験した時 使いますが、聖書がルーツであると知っている人は少ないかもしれません。

私も洗礼の儀式を見るまでは、まったくイメージがわきませんでした。 洗礼は、信仰告白をした後に行なわれます。イエス・キリストを受け入れることで今までの古い自分から新しい自分へ生まれ変わることを意味する儀式です。

イエス・キリストもヨハネからヨルダン川で洗礼を受けています。その時に聖霊が現れヨハネはイエスが、神の子であることを確信します。

大学四年の夏、フランスに六週間ほど語学研修にいったことがありました。

暑い夏で、石畳の街パリを歩いていると、はやくどこでもいいから教会の礼拝堂に入って涼みたい。なにしろ教会の聖堂の中なら日陰で石造りですから、ひんやり涼しく静かで、その上「ただ」で何時間でも休めるのが有難い。という調子で不謹慎ではありますが、若く楽しい思い出深い短い夏の日々でした。

そんなある日、大学三年ごろからお世話になっていたフランス人の奥様が、同じ年の夏にポワチエという小さな町に里帰りなさっておられ、週末遊びに来ませんかという親切なお誘いを受けました。

早速大喜びで電車にのって、うきうきとポワチエという町に出かけました。電車の車窓からフランスの田園を眺めるのも楽しく、牛が黒白でなくてカフェオレ色をしているのがまた珍しく、だからミルクやチーズやバターの味が日本と違うのかしらなど子どもらしい感想を抱きました。

小さな町は小高い丘のような地形の町で、古い建物がたくさんありました。私は以前、東京でその奥様のお嬢さんのベビーシッターさせていただいていたのですが、小さいお嬢さんとの再会もうれしく、三人で仲良く手をつないで町の中を散歩したり、名所旧跡を訪ねたり、古い骨董屋さんのウィンドーを覗いたり、楽しい週末を過ごしました。

そのなかで、ひとつ古いロマネスク様式の教会を見学したときのことをよく覚えています。本当に古い古い中世以前の建物でした。クリスチャンがフランスでまだよく思われていない頃の建物だったのかもしれません。

地下に舗装していない地面のままの部屋があって、大きな土を掘ったままの穴が開いていました。かなり深く掘ってあって、背の高い大人の背丈ぐらいすっぽり沈んでしまいそうな深さでした。壁面は石垣のように四角い石が積んでありました。

洗礼について(photo)

案内をしてくださったフランス人の奥様から「これが昔の人々の洗礼を受けた場所なのですよ」と説明を伺って、とても強い印象に胸を打たれました。それまでの私の「洗礼」の儀式は、水で頭頂部を浸すような儀式というイメージでしたので、こうした原始的な儀礼を目の当たりにして、少々たじろいだというのが正直な感想です。こどもの頃に読んだ聖書の絵本の中でも、バプテスマのヨハネがイエス様の頭に手をおいているだけで、水の中に完全に沈めてしまうような挿絵ではなかったように覚えており、それは若い頃の私の「洗礼」に関する単純で素朴な絵画的イメージを完全に覆してしまった体験として心の中に残りました。

天井に程近い高い細長い窓から、斜めに入る外光で照らし出されたひんやりした洞窟のような部屋で、ぽっかり開いた大きな穴を眺めていると、当時の人々がどんな決心をしてこうした宗教的儀礼を受け入れたのかという直接的感覚に喉が詰まるような気持ちになりました。そこで私が見たものは冷たい石を積んだだけの墓穴のような、しかも梯子も何もついていない、一度水に沈められたら上がって来られないのではないか、そんな穴だったからです。

私は個人的には大学三年の冬に洗礼を受けました。当時私は若い人々が皆そうであるように、私も自分が何のために生まれてきて、何をしたらいいのか、何をしたいのか、何ができて、何をするべきなのか、そういうことで頭がいっぱいでした。実際は世の中のことなど何もわかりませんでしたし、考えてもいなかったのですが、とにかく今はひとりにして置いて欲しい、ひとりで考えさせてくれ、というようなわがままで自意識過剰な極く当たり前な女子学生でした。

それで思いついたのが「洗礼」だったら、話の辻褄があっていいんですが、そうした美しい理想的な筋書きというよりは、もっと惨めで現実的な理由から「洗礼」を受けたいなと思いました。つまり私は近々結婚をすることになっていて、その結婚式は教会で挙式したかったということだったと記憶しています。それが多分私が二十歳のときに「洗礼」が頭に思い浮かぶ大きな理由のひとつだったと思います。小さな子どもの頃から馴染んでいた教会で挙式したかった。それが二十歳の頃の私の教会とのか細い絆でした。

洗礼について(photo)

その後、フランスに語学研修に行き、あのポワチエの土の穴を見たのですが、ああ「洗礼」ってこういうものだったんだという思いに心が痛みました。もっと深く厳しく、もっと身体的な、もっと骨髄にまで染み透るような、もっと心と魂を痺れさせるような、そういう体験を通して自分の裸のからだに刻印するような儀式だったんだ。そういう思いで胸が一杯になりました。たぶん神様が不謹慎に漫然と生きてきた私にも本当の洗礼の意味を教えておくべき時とお考えになったのでしょうか。私の人生というのはいつもぼんやり過ごした後に、その本当の意味がわかるときが来るという経験が多かったように思います。

それから二十五年以上の時が流れました。東京の教会で受けた洗礼、そしてフランスの教会の地下室に掘られてあった穴。そのふたつが私の洗礼に関する大きな記憶です。この記憶はいろいろな人生の場面で様々に意味を変えたり、複雑で意義深いものになりました。しかしこのふたつの経験がその後の私の教会との結びつきを固くし、何があっても戻ることが出来る港のような場所が心の中にある事の幸福と「洗礼」を受ける意味の重みと厳しさを教えてくれたという点では変化しませんでした。

「洗礼」を受けることは、たぶん人がもう一度不思議な力を得て、暗い穴から外に出ること、冷たい水に浸されること、胎内にいる赤ちゃんが月満ちて生れ落ちるような事なのかもしれません。生れ落ちて初めて、呼吸できるようになる。目が開かれ、光を感じる事ができる。でも人は人として生まれ、時間が経つにつれて傷つき、心が乾いてひび割れてきます。そのようなとき、神様の手でもう一度死んで冷たい水の中から再び生まれることが出来るのだとしたら?教会という大きな家族の中で、もう一度新しい命と責任を授かることが出来るのなら?教会の扉はいつも全ての人々に開かれています。

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