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「信仰告白 「神に出会う」  クリスチャン( K.Y さん)より

洗礼について(photo)

信仰告白という言葉に私はとてもドキドキしています。

告白なんて、好きな人にも満足にしたことがなく、まして公開告白など恥ずかしくて出来る訳がありません。この場面はわたしにとってかなり厳しい場面です。

信仰告白

信じたい気持ちがあるのに、まっすぐに向かえない。それならそれで無理をすることはない、今まで通りでいいではないかと考えることもしばしばありましたし、ある朝目ざめて、自分を欺いているような気がしたらどうしよう、と思ったこともあります。

でもやはりここまで来ました。それは私が歩んできたというより、私に呼びかけてきた力に動かされて、と今感じています。

私は長いこと日本史のパートタイム教師をしていて、2年ほど前に退職しました。ひとつのミッションスクールにずっと、いわゆる家庭の事情で辞めたり出戻ったりしながらですが。

それでキリストの教えはいつも近くにある感じでした。

でも、自分の思考範囲内で理解できることで生きていかねばと思っていましたし、もし新たな世界に入るにしても「たたけよさらば開かれん」と言われていることでもあり、自分が決意するのでなければならないと思っていました。現代人は信仰を持つのが難しい、ということを書いた本を読んでは「やっぱり無理かも」と変に納得してきました。

そういう私ですが、長い間に何かと心に残るものが留まって、だんだんひとつの思いが形を顕してきたように思います。今思い返すとそれが、呼びかけが聞こえる、という事だったのかもしれないと思います。

溜まって心に残ってきたもの、を少し取り出してみることにします。

子どもの頃に読んで好きだった本に

子どもの頃に読んで好きだった本のなかに、ジョルジュ・サンドの書いた「プチ・ファデット」というのがあります。

「ファデット」は主人公の少女の名前で、こおろぎとあだ名されています。

フランスの素朴な村で暮らす少女ですが、母親が酒場で惚れた男と一緒に村を出て行ってしまい、ファデットと足の悪い弟の幼い姉弟は置き去りにされてしまいます。

二人の面倒を見ているのは魔法使いじみたおばあさんで、育てられているというよりはほったらかしにされていて、ファデットは野原をほっつき歩いて過ごし、身だしなみもなっていなく、でも好奇心旺盛に暮らしていました。

そういう境遇なので村人からはなんとなく外れものにされ、子供仲間でも色黒くみっともない、ほっつき歩いているコオロギとあだ名され、そのように扱われていたのです。

その少女が心を寄せる裕福な農家の双子の兄弟、育ちが良くてイケメンの少年(弟)に自分の魅力を示そうとある企てをするのですが、見事に失敗して逆に軽蔑されたと感じ、絶望している場面でファデットが自分のことをこんなふうに言うところがあります。

「あたしが身だしなみも行儀も構わないって事は、それはあたしが自分を器量良しだと思うほどバカじゃないっていう証拠になるはずだわ。誰も見てくれ手のないほど不器量な女だってことをちゃんと知ってるんだもの。・・・あたしの顔だって、神様やあたしについている天使にはちっともイヤな顔じゃないはずだし、あたしの方でもその顔に不平を言わないんだから、神様だってそれをおとがめになるはずはないし、そう思うと気が軽くなったわ。だからあたしは他の人達みたいなことは言わないのよ。

「おやっ。毛虫がはってる。イヤな虫だ。まったくなんてきたならしいやつだ。こんな奴は殺しちまえ」なんて事は言わないわ。毛虫だって神様のお作り下さったものだもの、踏みつぶすようなことはしないわ。水ん中へでも落ちたりすれば、葉っぱを出して助けてやるわ。そうすると、悪い虫を可愛がるとか、魔法使いだとか言われるのよ。

それがなぜかって言えば、蛙をいじめたり蜂の足をもいだり、生きているこうもりを樹に釘付けにしたりすることを、あたしが嫌いだからよ。可哀想な虫けらを見るとあたしはよくこう言って話しかけてやるの『可哀想にね、いやなかっこうをしたものをみんな殺さなきゃならないんだったら、あたしだっておんなじことだわ。生きている値打ちはないわけよ』って。」

子どもの頃に感じていた自分を取り巻く世界は、概して優しくて調和に満ちていました。野原で草に止まって揺れているトンボを見ている時、赤く染まる夕焼け空を感動して眺めている時、自分は自然の一部だということを実感しました。他の動物や植物に、同じように命を与えられた者としての共感めいたものをもってきたと思います。だからファデットのそういうセリフがごく自然に思われ、子供心に共感していたのだと思うのです。

日本史の勉強から

学生時代には日本史の勉強をしました。

小学校から大學までずっと公立の学校で教育を受けてきたなかで私の中で確とした世界観が出来上がっていきました。それは多分多くの方々が同じだと思うのですが、自然界のことは科学が極めて説明してくれる、人間社会のことも人間の考えた合理的方法によって説明できる。まだ明らかになっていないことも、社会科学や自然科学が更に進歩すれば明らかになっていくだろう。

人間の知恵、知性が総ての世界の根幹にあるという考え方です。歴史の勉強はそうした世界観を一層強めていきました。

しかし一方で、歴史の勉強は別の思いも育てました。

歴史は人類のほぼ総ての姿を映し出しているのですから、ことばでは言い尽くせない内容を持っていますが、私には時々それが累々と重ねられた人間の死のつながりに見えることがあります。その死には悲惨な死が数知れずあり、人類はその悲惨な死体を踏み越えふみ越え進んできたという感じなのです。

日本人の大好きな織田信長にしても、非情な殺戮を繰り返して生き残った人間だった訳です。現代も全くかわりがありません。殺戮、虐殺は人間の歴史そのもの、つまり人間という存在の本質なのではないかという思いです。

そういうなか、虐殺した事件を真正面から描いた映画で

そういうなかで昨年夏にアンジェイ・ワイダ監督の映画「カチンの森」を見ました。カチンの森で社会主義ソビエトがポーランドの将校はじめ指導者たちを虐殺した事件を真正面から描いた映画で、この時殺された将校の一人が監督自身の父親だったとはその時初めて知りました。

将校たちはソビエト軍によって拘束され、移動させられながらカチンの森に近づいていきます。なぜ拘束されたか知らされず、ソビエト軍を友軍と信じようとしていた将校たちは突然凶悪な方法で射殺され土の中に放り込まれてしまいます。本当に救いのない事実を、救いのないままに映画は語り続けます。

人間は本当に救いのない罪深さを負った生き物です。こんな人類に救いはあるのだろうかと思ってしまいます。ナチス・ドイツも酷いことをしたけれど、アウシュビッツの苦しみを超えて生まれたはずのイスラエルは、今はパレスチナにむけて牙をむいているではありませんか。

でも、ワイダ監督は、真実を瞬間的に悟った将校たちが、殺されるまさにその時「われらの罪を許したまえ」と祈りのことばを口にするのを映します。また「われらに罪を犯す者をわれらが許す如く」とつぶやく将校も映します。

それを見て、もしかしたら、これほどまでに深い罪からも、イエス・キリストは人々を救い出し、赦して下さるのかもしれない、と深い安堵の気持ちが残りました。

私の母は現在90歳になり、車イスながら穏やかに暮らしています。一時もうダメかもしれないと思われる時期があって、苦しそうにしている母に須賀敦子さんの御母様の話をしました。「ベネツィアの宿」というエッセイにこんな場面が書かれています。

<お嬢さんがカトリックになられたのだから奥様も、と言って教会の伝道師さんが、母の所に現れるようになった。・・・ある時、天使の存在を信じなければ、洗礼は受けられない、と伝道婦さんが母に言った。

「御母様は『それでは仕方ありませんねえ』って、おっしゃったのよ。それが皮肉でも何でもなくてほんとうに残念そうだったものだから、私は思わず笑ってしまいました」ずっと後になってから、その伝道婦さんが私にそんな打ち明け話をした。『私はそんな不思議なものをとても信じられませんから、どうぞお帰り下さいって。他の人にああいわれたら、腹が立つけれど、御母様には何も言えないで、その日は帰ってしまったんです』

そういいながらも、母はやがて洗礼を受けた。・・・「なにも信じないよりはましだって、そう思って、私は洗礼を受けることにしたんだから」そんなふうにも母は自分の信仰について話した・・・「終点にだれもいないより、神様がいたほうがいいような気もするわ」・・・

そういわれてみると、結局はそういうことかと胸に響くものがあって、やわらかな母の信仰がうらやましかった>

人生を終えようとしている母に、わたし自身も「終点にだれかいたほうがいい」ような気がすると伝えたかったのですが、私の母は手強くて、「あなたが洗礼をうければいいでしょ」と切り返されてしまいました。ぎゃふんと思いながらも確かに、そういうことかもしれないと思いました。

暫く前のことですが、同じような家庭環境で育ち、同じような教育を受けてきた友人とキリスト教について話しました。友人は青年時代に教会の扉を叩いたこともあり、キリスト教に関心をもって来た人です。彼女は私とほとんど同じ意見で、「だから信じることは出来ない」と結論づけました。ところが私は、途中は全く同感なのに、結論の部分で突然意見が分かれるのに気付きました。結論だけがはっきり彼女と違うのです。

私も同じ考えだ、だけど信じられるわけがないとは思わない、それは別問題なのだから、何故なら私は「信じたいと思っている」のだから。

自覚がなかったので、信じたいとはっきり感じたのが我ながらちょっと不思議でしたが、ほんとにそのままそう思ったのです。それはいはばイエス・キリストがずっと傍を歩いていて下さっていたのにようやく気づいたという感じです。信じたいと思っている、それをイエス・キリストが気づかせて下さっている、呼びかけていて下さったと感じるのです。

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