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「クリスマス」とはどのような日でしょうか。 [クリスチャン D さんより]

弓町本郷教会のクリスマス

「クリスマス」とはどのような日でしょうか。難しい話はよく分かりませんが、私の感じているクリスマスを紹介します。

クリスマスとは、イエス・キリストがお生まれになった日を祝う日です。「祝う」とは一体何をするのでしょうか。

イエス・キリストが自分の罪の身代わりとなるために地上に来て下さったことに感謝することだと思います。罪?身代わり?もう少し詳しく説明してみます。

自分は罪深い存在です。例えば人に不愉快なことをされるとその人を憎み、話もしたくないと思ってしまいます。神様が求めていらっしゃることを行うことよりも、周りにつまらない人間だと思われていないかと、周囲の評判を恐れる自分がいます。人の心の重荷を一緒に担うことよりも、「自己研鑽」と称して多々自分の時間を優先させます。そして自分がいかに他人よりも自分の事しか考えていないか、普段自覚すらしていません。その他、神様の御心にそぐわない点は、内容も数も、これらの例だけではとても収まりきりません。

弓町本郷教会のクリスマス

これらの罪のために、私は本来、神様に見捨てられてもおかしくない存在です。しかしそんな自分でも、イエス・キリストが我々の身代わりとなって十字架にかかり、我々の罪を一身に背負って下さった、神様に我々のゆるしを乞うて下さった、これにより神様はゆるして下さったのです。

イエス・キリストの身代わりによって、神様は我々をゆるし、「神様、あなたの下に帰らせて下さい」と祈る時、神様は我々を喜んで受け容れてくださることとなったのです。

神様が我々をゆるし受け容れてくださるという事は、どれほどありがたいことなのでしょうか。私は幸い「この人なら自分の事を分かってくれる」という友人がいます。

彼らは、私がどういう性格で、普段何を考え、どんな悩みを持っているのか、分かってくれていると感じますし、自分が本気で困った時に相談すれば、親身になって聞いてくれるという気もします。

しかしそれでもなお、彼らに言えない事が心の奥底にはあります。あるいはよしんばそれを実際に打ち明けても、それで自分の心に潜む重荷が、軽くなったとしても消えることはないだろうと思います。結局人間である以上、自分一人で受け止めなければいけないものがあると感じています。そんな時、クリスチャンになる以前は、「結局自分をすべて理解してくれる人などおらず、この先ずっと淋しい思いを抱えつつ生きていくのだろう」と思っていました。

しかしクリスチャンになった今は、「誰も分かってくれなくても、神様は常に自分の事を見ていてくださり、自分の事を受け容れてくださる」という安心や喜びを感じています。神様に見捨てられるとは、そのような存在がいてくださらないという事です。そんな孤独は、私には耐えられません。しかし神様は、我々をゆるし、受け容れ、「わたしはあなたと共にいる」とおっしゃってくださっているのです。

イエス・キリストは、我々の身代わりとして処刑される事を承知でこの世に下りてきてくださり、「神様、罪深い人間をゆるし受け容れてあげてください」と神様に請うて下さったのです。その愛に感謝することが、私にとっての「クリスマス」です。

「クリスマス」の足音が聞こえる今、自分がどれ程大きな罪を日々おかしているのか、そしてそんな私をゆるすためにイエス・キリストが命を捧げてくださったという事の愛の大きさを、改めて振り返りたいと思っています。

自分は神様にとって大切な一人なのだ、この世にとって大事な人間なのだと分かった時、世界のすみずみまで、小さな一人ひとりを神様がどんなに愛してくださっているかを知ることが出来ると確信いたします。

教会で、ご一緒に本当のクリスマスの意味を訪ねて見ませんか?!

刀@いと高きところには 栄光 神にあれ  地には平和 み心に適う人にあれ

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