二十代の皆さんへ[ クリスチャンの声より ]
いま、二十代という貴重なときを生きている皆さんはどのような毎日を過ごしているのでしょうか?
毎日やるべきことに追われているのではないでしょうか?
最近の学生や若者は(自分はともかく)本当にまじめになったと聞きます。
学生時代、授業にもきちんと出て、課題もきちんとこなし、社会に出ても夜明け近くまで必死で仕事を処理しているそうです。
それ自体は良いことなのかもしれません。ですが、それと同時にさまざまな悩みも生まれてきます。
まじめな学生、社会人であるがゆえの悩みが増えているように思えるのです。
人間関係に躓いたり、将来への希望が持てなかったりして私たちの心は揺れ動きます。
それを自分の中に抑え込んでしまうことは本当に苦しいことです。孤独の中で一人もがき苦しんでいるうちに自分自身を見失ってしまうことがあります。
私は現在学部四年間+大学院二年間という長い学生生活を終え、社会人としての歩みを始めようとしています。私がかつて留学していたときに、物事が思ったように進まなくなるばかりか、課題が多すぎて何から手をつけてよいか判らなくなってしまうことがありました。
そんな時、ふと聖書を開いてみると「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイによる福音書11・28〜30)という聖句が目に入りました。
自分ひとりで負いきれない重荷を、自分の知らぬ間に主イエスキリストが担ってくださっているのだということをいつの間にか忘れてしまっていたのです。歩けないときは歩けなくても良いのです。駄目なときは駄目なときで良いのです。
真面目でなくても、何も出来なくても、神様はそっとあなたの荷物を一緒に背負ってくださっていると同時に、あなたが神様のもとへとやってくるのを忍耐強く待っていてくださるのです。
もちろん、この聖書箇所にもあるように、問題自体が消えてなくなるというわけではありません。
しかし、我々が抱えている問題の多くはわれわれの困難に対する姿勢そのものにあるのではないでしょうか。
人生における重荷をわざと見ないように、振り払って生きるのではなく、苦しみを苦しみとして、不安を不安として捉え、それを主イエスキリストと共に担って生きようとするとどうでしょう。
独りよがりな自分自身への固執や不安、孤独は少しずつ消えていくように感じます。
負わなければならない重荷は本当に軽くなるのです。
いろいろと述べてきましたが、何はともあれ、みなさんぜひ一度教会へ足を運んでみてください。
私たちと一緒に聖書を読み、考え、悩み、感じることでいままでとは違う何かを見つけ出すことがきっと出来ると思います。
皆さんのお越しをお待ちしています!