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何故私は教会に行くのか [ クリスチャンの声より ]

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私は政治記者(朝日新聞)として、国会の赤じゅうたんを駆け回った人間です。教会からはかなり遠いと思われる場所で働いてきた人間が、何故教会に出席しているのか。

私の場合、両親がクリスチャンの家庭に生まれ、大学生のときに洗礼を受けました。しかし、就職してからは教会から全く遠ざかり、礼拝に出ることもありませんでした。

定年を迎え、再び教会に顔を出すようになりました。求道者の一人として弓町本郷教会の群れに加えてもらっております。偉そうなことを言える立場ではありませんが、私の気持ちを率直に書きつづりたいと思います。

この世にはどんなに努力しても、人間の力ではどうにもならないときがあります。

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、この世にはどんなに努力しても、人間の力ではどうにもならないときがあります。「何とかならないか」「何とかして欲しい」・・・誰しも祈りの心を持つのはこのためです。

キリスト教の神は「全能の父なる神」と理解されています。「父」ですから人格を備えた神です。その神に祈るとき、そこには当然対話が生まれます。これはキリスト教の祈りの大きな特徴ではないでしょうか。

子供のころから祈ることを教えられた私は、いつの間にか神様と対話する習慣がつきました。祈っていると、神様が「ちょっと虫がいいんじゃないか」と言っておられるような気がすることがあります。「まだ、努力がたりないね」と叱られているように思うこともあります。いくら祈っても、願いが適えられないことが多いのですが、思いもかけず、願いを聞いてくださることがあります。

神様と向き合うとき

私にとって週に一度の教会は、居ずまいを正して、神様と向き合うときです。つまらぬことで悩み、人を傷つけ、傷つけられ、愚かな行為を繰り返してきた1週間の生活の懺悔の場でもあるのです。神様は「お前のやってきたことは全部わかっているよ。来週はもう少しちゃんと頑張れ」と励ましてくださいます。新しい週に向かって、また生きる勇気を与えられるのです。

同信の友と一緒に、個人的な祈りだけでなく、世界の平和、日本の運命、苦しんでいる人々の癒しなどもっと大きな祈りを捧げることも出来ます。賛美歌を歌い、聖歌隊やハンドベルの調べにも耳を傾けます。牧師から聖書の言葉について、説き明かしを受ける中に、心の中がすっかり洗われるような気分になります。

政治家

政治家はしばしば「悪の権化」のようにいわれます。確かに、ふつうの人より権力欲が強く、われ勝ちのところがあるのは事実です。それでも人間であることには変わりありません。人並みの悩みも弱さも持っています。

ごく少ないですが、政治家にもクリスチャンはおりました。終戦直後に社会党から首相になった片山哲さんは熱心なクリスチャンだったと聞いています。

自民党から首相になった大平正芳さんは、学生時代街頭で伝道したほどの熱心なクリスチャンでした。無教会派に属していたといいますから、教会には行かなかったかもしれません。日本の政界でクリスチャンであることは、何の得にもなりませんが、生涯クリスチャンを貫きました。

私は官房長官や外相時代の大平さんを担当し、親しく付き合ってきました。宗教の話をしたことはありませんが、ふつうの政治家と違ってどこか達観したようなところがありました。やはり、神の前で、人間の有限性を自覚し、祈りの心を持っていたからじゃないかと思っています。人並みの権力欲を持っているように思うこともありましたが、仲間の政治家からは「大平はクリスチャンだから、無欲で困る」といわれておりました。

教会に来る人々

一方、「教会に集う人々は聖人君子ばかり」とか「クリスチャンは偽善者」という世評があります。これほどひどい誤解はありません。

教会に来る人々も政治家と同じ人間です。過ちは犯しますし、教会の中にも意見の相違や、争いはあります。ただ、人間の罪の深さ、愚かさを自覚し、神様の前に謙虚であろうと努力する人々の集まりですから、ふつうとは違った味があります。ぬくもりのある交わりも出来ます。

科学は進歩し、生活は豊かに便利なっていますが、人間関係はどんどんすさんできているような感じがする昨今です。

イエス・キリストは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章28節)といわれました。

一度教会をのぞいていませんか?

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