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自分を見ていて下さる方を知った時 [ クリスチャンの声より ]

自分を見ていて下さる方を知った

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イエスさまというお名前からは無縁の存在であった自分が、このような形で信仰を言い表すことになろうとは、私自身神様のお導きの不思議さを思わずにはいられません。

振り返ってみると私がイエスさまに最初に出会ったのは大学三年の秋であったように思います。もともと私の家族にクリスチャンは一人もおりませんでしたが、しかし父親は「神はいる。誰も見ていなくても自分の心の中で神は見ている」との考えを持っている人で、私も幼い頃よりそのように教えられて育ってきました。

イエスさまというお名前からは無縁の存在であった自分

イエスさまというお名前からは無縁の存在であった自分が、このような形で信仰を言い表すことになろうとは、私自身神様のお導きの不思議さを思わずにはいられません。

振り返ってみると私がイエスさまに最初に出会ったのは大学三年の秋であったように思います。もともと私の家族にクリスチャンは一人もおりませんでしたが、しかし父親は「神はいる。誰も見ていなくても自分の心の中で神は見ている」との考えを持っている人で、私も幼い頃よりそのように教えられて育ってきました。

高校時代の終わりに

高校時代の終わりに人間関係につまずきを覚え、自分にとって譲れない生き方とは何かと真剣に悩む中で、キリスト教の教会ならば「神はいる」との自分の生き方に何かしら応えてくれるのではないかとの思いから、高校卒業と共に教会にしばし足を運ぶようになりました。これが私と教会との最初の関わりであります。

その後まもなく教会から足は遠ざかってしまうものの、二年ほど経て再び人間関係における大きなつまずきを経験し転機を迎えることとなります。これは、見えない所では人の信頼など気にかけないという生き方に直面し、しかもそれまで自分が信頼を置いていた人間がそういう人であったという事で、相当なショックを受けたという出来事でした。「人に対する不信感は消えるのか」「神はいるのか、いたとしても神を信じるが故に辛いことが起こるのならなぜ神など信じるのか」といった事を思い悩む中で、自分と同じく神様の存在を信ずる人々がいかにこれに答えるのかと、救いを求めるように再び教会を訪れました。ここから教会・聖書と自分との関係というものが本格的に始まったわけです。

その苦悩の日々にあって大きな影響を受けたのは遠藤周作氏の著作でした。遠藤周作氏は例えば『沈黙』といった著作において「神はいるのか、いたとしても神を信じるが故に辛いことが起こるのならばなぜ神など信ずるのか」と、私と全く同じ問いかけに向かい合っていらっしゃる。そのことを知って、実は自分の信仰とキリスト者の信仰との間に大きな差はないのかもしれないと徐々に思うようになったのです。

遠藤氏の著作『満潮の時刻』

この状況下、遠藤氏の著作『満潮の時刻』を読み決定的な影響を受けます。そこには愛する人と死という形で別れを告げようとしている人、戦場のジャングルで誰にもみられることなく一人死を迎えていく人、生死をかけた大手術を前に、自分自身病気のつらさと恐怖におびえつつも愛するものには心配させまいとして隠し、夜の病室で一人恐怖におびえる人、などが描かれ、そういったすべての一人一人に対し、その孤独と恐怖をも受け入れる、あなたをじっと見つめる視線が存在するというのです。そしてそれこそイエス・キリストという存在だというのです。

これは「一人になってしまい、また人に対する不信が消えないかもしれないなどと恐れる自分の思いなど、誰にもわかるまい」と苦しんでいた自分にとり大きな救いでした。そしてこのとき初めて、改めて前に向かって生きる力を与えられたように感じたのです。これが、私が初めてイエス・キリストに出会ったときであったように思います。

こうして「常に見守っていてくださる存在」に新たな命を与えられたものの、それがイエス・キリストだということは当時の私には理解できませんでした。特に自分が罪を負っているという事、イエス・キリストはその我々の罪を贖うために遣わされたのだということが全く理解できませんでした。しかし自分もこれまで「自分の心の中に常に神様がいらっしゃる」と信じまた感じてきたのは事実で、実は自分の感じていたその存在がイエスさまだったのかもしれないとは感じていました。その存在がイエス・キリストなのかどうかを知りたい。それがそれからの私の歩みであったと思います。

この時期同年代のキリスト者を探し求めて現在の○○寮に入寮することとなったのですが、そこでの生活は、まさにその存在こそが他ならぬイエス・キリストなのだと、神様から教えていただく過程であったように思います。

自分の生き方と聖書が求めていること

寮生活においては日々周りの寮生から多くを学ばされる生活でしたが、その中でもいくつかの転機があったように思います。

一つは我々の寮にカトリック教会の○○神父がいらっしゃってお話をされた時のことです。そのお話を聞く中で初めて、自分が聖書を理解するのではなくまず聖書ありきなのだということを思い知らされました。自分が理解できるかどうか・自分が受け入れられるかどうかといった基準で、自分の都合の良いように神様のイメージを作り上げるのではなくて、初めに聖書の御言葉があって、自分を越えたまったく絶対的な存在として神様がいることに気付かされたのです。

しかし絶対の神様がいると気付かされた時、これまでの自分の生き方と聖書が求めていることとがたびたびぶつかりました。その中で神様を絶対と仰ぐならば、それは今までの自分の生き方を自分自身で否定していく事であり、またそれを否定したら自分はどう考えて生きていけばよいのか分からなくなるという事で、正直これまでの自分を否定する事は怖くてなかなかできることではありませんでした。

私が○○兄らに連れられ、多くの寮生と共に最初にこの弓町本郷教会を訪れたのはちょうどこの頃でした。その温かくて元気の良いこの教会の雰囲気と、菅原先生の大変分かりやすいお話に心魅かれ、その後××年の元旦礼拝から○兄・○○兄と共に礼拝に通う様になります。その間○○神父のお話を聞き、またそれ以外にも多く悩んでいることはありましたが、しかしそれらとは無関係に、弓町本郷教会の方々が私を温かく迎えて下さり、そのおかげで私も半ば皆様と日常の他愛もない話をさせて頂こうといった気持ちで、毎週礼拝を守り先生方のお話を聞くことができることとなったのです。

その先生のお話の中でとりわけ大きな影響を受けたのが、「自分自身の手にあるものを握り締めそれにしがみついている限り、自分が神様に支えていただいていることには気付かず、神様の本当の愛に気付くこともできない」というある日のお話でした。この時、今までの自分の生き方を否定する事は怖くてできないと感じていた自分は、結局の所今までは、競争に勝ち残って他人から認められることを目指し、その結果として何かを成し遂げることに意味を見出してきた者である事、その過程で得られる自意識・プライド等を支えに生きてきた存在であることに気づかされました。

そして今までは「神様」の名前を口にはしていましたが、それは結局自分が何かを成し遂げていくために私を守ってくれる存在として、自分の都合の良いように「神様」の像を作り出していたことを改めて思い知らされたのです。この時以来次第に、自分の今までの生き方を改め神様を絶対として生きる生き方へと招かれていきました。

その後この弓町にもいらした○○先生が我々の寮の聖書研究会にいらした時に、「分からないことも多くありますが、なんとなく洗礼を受けてみたいと思ったとしたら、それは十分に洗礼を受ける理由になりますか」と質問したところ、「それは十分立派な理由になります」と言われ、受洗を本気で考えるようになったのです。

以上が受洗へと招かれていった私の歩みですが、不思議なことに受洗したいと周囲の方々にはっきりと申し上げた後に、さらに一層神様の恵みと招きとを感じるようになりました。それは、受洗したいと言っておきながら、いかに自分が愛のない人間であるかを思い知らされる出来事が寮生活の中であったからです。

自分は正直今まで人を愛することなど考えてこなかったし、他人への愛などから全く程遠い自分であることを改めて自覚し、こんな自分が洗礼など受ける資格があるのかと考えました。

そのなかで

ルカ5:32「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」

ルカ7:50「あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい」

等のイエスさまの御言葉に触れ、自分がどこまでも罪多き存在であること、しかしその罪をイエスさまによって赦され担われているのだという事に気付かされました。

そして、こんな自分でも「神様」などと口にすることが許されるのだとすれば、それはひとえに神様が私に呼びかけてくださっているからなのだと感じるようになったのです。

最後に今ここで、神様にお祈りさせて頂きたいと思います。

私はこのようにして、何よりあなたの愛によって救われ新たな命を与えられた者です。さらにその後もその時々であなたの恵みに気づかされ導かれてきたものであります。それにも関わらず私は、一度過ぎてしまえば瞬く間にあなたから遠ざかり、傲慢な自分に戻ってしまう真に罪多きものです。このような私でもあなたの御名を口にする事が許されるのだとすれば、それはひとえにあなたが私を招いてくださっているからだと信じます。同時に隣人愛から遠くイエスさまを主と呼ぶことなどまったく許されないような私をも、あなたが赦し招いて下さっている事を信じます。どうぞあなたの愛により新たな命を受けた者として、あなたが私を用いあなたの愛をのべ伝える者となさしめてください。

これまで私を導いて下さったすべての方々に、深く感謝いたします。

これまでの歩みの中で出会った本当にお一人お一人によってここまで導かれてきたのだという事を、改めて強く感じます。また私を一員として受け入れて下さる皆様に、そしてその方々にあなたが出会わせて下さった事、深く感謝いたします。どうぞこれからの歩み、この場に集う方々と共に、あなたが私を用いてくださいますように。この祈りを、新たな主イエス・キリストと、神様の御前とにお捧げいたします。アーメン。

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