別の道 [ クリスチャンの声より ]
自然は大きなホスピタル。大家族と北海道の雄大な空知平野のなかで子供時代を過ごした私は、人生には躓きが伴うなんて思いもせず、昭和46年、待望の幼稚園教諭になりました。
ところが、行進曲すら弾けないピアノに躓き、製作時間に折り紙をしょうとすると2・3名の子はクラスから飛び出すという指導力の無さでした。
おまけに、教育理念よりも経営力がものを言うという社会の仕組みにであって、社会人一年生はアッという間に挫折を味わうことになりました。
幼稚園教諭になって
36名のクラスに口蓋裂の障害を持った子どもがいて、「先生、ぼくのいうことが判らないの?」と悲しい顔をするのです。
子どもの目と口の動きを見て、「 ごめんね。T君、もう一回お話してくれる?」を繰り返し、クラスのみんなに、T君の困っていること、嬉しいことなどを返して行きました。
2つ目の職場は何人かのクリスチャンの方のおかげで教会付属の幼稚園に決まりました。
驚いたことに、私としてはT君との関わり方は暗中模索の毎日でしたが、その保育に共感を示してくださる父兄が、「遠くても、下の子を通わせます。」と言ってくださいました。
聖書のお話
教会付属ですから聖書のお話をする順番が回ってきます。
不遜なことですが、幼稚園に就職するにあたって、宗教色の無いところというのが希望でした。
祈祷会に出ても、使ったことの無いことばばかり。
イエスさまの奇跡にいたってはお手上げという状態でした。
青年会では、自分の命は自分で決められるなどと勝手なことを言っていました。
しかし、子どもの中にいる時間は楽しく、休みの日でも遊びに来る子達と過ごしていました。
札幌の教会幼稚園
札幌の教会幼稚園は全国に先がけて障害児保育の取り組みをしていましたので、話すことも聞くことも出来ない子を集団の中で、その子も楽しく、他の子ども達も変わっていくという保育をしました、一人として、存在を主張しない子はいないのですから、毎日はへとへとに疲れながらも充実した日々でした。
聖書の話をする以外は。
4年目の夏、園長 ( 牧師 )先生から、「 長島愛生園に行ってみませんか。」と勧められました。
小さな船で着いたそこは、みかん畑に囲まれた美しい島でした。
ただ、自分が育ってきた田舎とは何か違う。
夜の祈祷会で、それが解りました。
集まってくださった人達、みんなが、ハンセン病という病気のために隔離された人だったからです。
初めて、知らない世界を見たおもいでした。
住んでいたところを追われ、子どもが出来ない手術を受けさせられ、生まれたばかりの子どもは死産だったと告げられて、生きてきた人達が自分の目の前にいました。
ここで育った子どもは出生場所を隠して、島を出るということでした。
自分の生き方を自分で決めるなんてうそぶいていた私はその場にいられないおもいでした。
その方達が祈ってくれました。
遠い、行った事も無い札幌の子ども達のために。全国の幼い子どもの魂のために。そして、わたしがイエスさまを信じられるようになるようにと。
苦しみの中にあって平安を得ている人の強さ。
イエスさまが重荷を負って共に歩いてくださると信じていく明るさ。
そういえば、それまでだっていろいろな場面で、信じて歩いている人に出会っていたのです。頑なな心が認めたくなかったのです。
クリスマスに洗礼を
愛生園から帰ってから、聖書を読む日が続きました。
その年のクリスマスに洗礼を受けさせていただきました。
聖書の箇所はマタイ2章12節。三人の博士が星のお告げを受けて、赤ちゃんイエスさまに会って、帰るところです。
「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」
別の道とはイエスさまをあおぎながら行く道だと教えられました。
それから教会生活33年。
自分の考えにとらわれないということはないのですが、静かに祈る時が与えられると、神様を見上げる道はそれではない、と気付かされます。