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ぶどうの枝 [ 社会福祉法人カリヨン子どもセンター理事長 坪井 節子(弁護士) ]

子どもの声を聞いて

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少年鑑別所で

今日、少年鑑別所でひとりの少女に会ってきました。家出、窃盗、恐喝を繰り返し、年齢を偽って風俗営業で働いていたところを補導されたのです。私は、彼女の付添人です。大人の裁判でいうと弁護人にあたります。面会は今回で3回め。 「大人なんか絶対信じない。あんたなんかに心配されたくない。もう死んでもいいや。十六年、十分長く生きたよ」これまでの2回の面接で、彼女は、そう悪態をついて荒れていました。 生まれる前に父を亡くし、生まれて一月で母に置き去りにされ、それからずっと、乳児院や児童養護施設でくらしてきた子です。私はつらくて、どうしたら彼女と心を通わせることができるのかと悩み、落ちこんでいました。

子どもたちとの出会い

子どもの人権救済活動という分野で働き始めて十四年になります。もちろんふつうの弁護士の仕事もしていますが、弁護士になって七年め、ふたりめの子どもが二歳になって保育園にも慣れたころ、東京弁護士会の「子どもの人権救済センター」の相談員になったのがきっかけでした。

子どもの相談ぐらいなら私にも出来るだろうと、たかをくくったのが大間違い。電話相談や面接相談で出会った子どもたちの話の中身は、私の想像を絶するものでした。学校の中でのいじめや体罰、不登校、家族や施設の中での虐待、少年犯罪、子どもの買春(売春ではなく、買う大人の側から見たときに買春というのです)。

そうした現実の中にいる子どもたちが、小さな胸の中に、これほど深い苦しみや悲しみ、怒りをためこんでいたとは。だれにも語ることができずに、ひとりぼっちで、もう生きていたってしょうがないというほどの絶望に陥りながら、それでも必死に生きてきたのです。よくぞここまで生きてきたものだと、子どもたちに畏敬の念すら抱きました。

私に何ができるのか

それからが大変でした。子どもたちの苦しみを聞いてしまった私は、どうしたらいいのでしょうか。かつて私自身が体験したこともないような苦悩を背負っている子どもたちに、いったい私は何をしてあげられるというのでしょうか。 大人たちからの法律相談であれば、弁護士としてそれなりの知識や情報もあり、何をどうやって解決すればいいのかのアドバイスをすることができます。

しかし苦しむ子どもたちの前では、弁護士の肩書きなど役に立たないのです。大人であるということすら、意味をもたないのです。 何の解決策も見つけられず、相談に来た子どもといっしょになっておろおろして、泣いていることしかできない自分がふがいなくて、何度も相談員をやめようと思いました。

けれども、そんな私を救ってくれたのは当の子どもたちだったのです。「こんなに一生懸命、子どもの話を聞いてくれる人がいるとは思わなかったよ」、「話していたら気持ちが楽になった。元気が出てきた。」「また会ってくれる?」子どもたちから、そんな反応がかえってきたのです。

そうか、子どもたちは解答を求めていたのではなかったのだ。人間は、結局、自分の苦しみから立ち上がる道を自分で見つけるしかないんだ。でも、ひとりぼっちでは、それができない。だから話を聞いて、いっしょに悩んで、考えてくれる人がほしかったんだ。 私はこのままでいこうと覚悟を決めました。私にできるのがそれしかないなら、そうするしかないと思いました。

傷ついた子どもたちの回復

ただじっと話を聞いているだけでも、子どもたちの苦しみが流れ出してくるのを感じます。ひとりで抱えていたら重くてたまらなかったものを、だれかに分けて持ってもらうだけで、人間はずいぶん楽になれるものですよね。

でもその関係ができてくると、私のほうからどうしても投げかけたいメッセージが生まれてきました。なぜなら、原因は千差万別だけれども、苦しんでいる子どもたちが間違いなく陥っているつらさ、それは「自分なんか生まれてこなかったほうがよかったんだ」という自分を責める思いであることが見えてきたからです。

そんなことはない。あなたは生まれてきてよかった。今とても傷ついているけれど、それでもありのままのあなたでいい。生きていていい。あなたに生きていてほしいと願っている人が必ずいる。だれもいなかったとしても、目の前に座っている私が。そう願っているじゃない。

このメッセージを、表現はさまざまに変えながらも、時にはことばにしなくても、子どもたちに浴びせるほどに伝えたくなるのです。 深く深く傷ついた子どもたちが、それでも自分は生きていていいんだという確信をつかんだとき、やっと自分の道を自分で見つけ出し、前を向いて歩き出します。

その回復のエネルギーのすばらしいこと。実は、子どもたちのこの姿を見せてもらうたびに、私のほうが元気をもらっているのです。

祈ることが許されている

何といってもつらいのは、冒頭に述べたように、子どもと気持ちが通じ合わない時です。あるいは虐待の果てに子どもが命を落としてしまうというような、もはやどうにもなららい事態が起きた時です。 弁護士仲間で話すときや市民向け後援会などでは触れたことがないことがあります。

それは、私たちには、とりなしの祈りが許されているということです。つまり自分の力ではどうにもならない状況の中で、相手のために、神様の恵みがありますように、イエス様が寄り添ってくださいますように、と祈ることが許されているということ。それが、私にとって、どれほど大きな救いであるか、はかりしれないと思います。

私は幼児洗礼を受け、教会の附属幼稚園に、そして高校1年生の時まで教会学校に通っていました。でもその後、神さまの存在に疑問をもって教会を離れてしまいました。 その私を、30年の時を経て、再び神さまのもとへ、教会へと連れ戻してくれたのは、これらの子どもたちだったといっても過言ではありません。打ち捨てられる子どもたちとともに歩いてくださるイエスさまが、私を招いてくださったのだと思います。

そして彼女にも

少年鑑別所での彼女との3回めの面会を前に、私はなすすべもなく毎晩祈りました。「私にはどうすることもできません。どうかイエスさまが彼女に寄り添い、彼女の深い孤独、人間不信を癒してあげてください。」と。そして重い心で彼女と面会したのです。

ところが、なんとその日初めて、彼女とうち解けて話すことができたのです。これまでの生活や非行の詳細、これからの生活への不安や希望、自分の問題性、間近に迫る家庭裁判所の審判への準備。次々と語り合うことができました。少年院に送られることがほぼ間違いない状況で、出院後の居住先の世話や高校受験の準備、少年院への訪問などの私の申し出も、これまでのように拒むことなく受けとめてくれたのです。

神さまは生きて働いておられる。「少年院でがんばってこようかな」と語る彼女を見つめながら、涙が出そうでたまりませんでした。

子どもとかかわるすべての人にエールを送ります

もしかしたら、教会学校に通ってきている子どもたちの中にも、人知れず苦しんでいる子どもがいるかもしれません。そのまわりには、もっとたくさんの苦しむ子どもがいるでしょう。

それに気づいた大人たちが、どうしたらいいのか。そして子どもたちをそれほどまでに苦しませないために、どんな社会にしなければならないのか、子どもとパートナーとして生きるってどんなことだろう。そんなことをいっしょに考えながら、読んでいただければ幸です。

もうこれ以上、自分をいじめないで

子どもの話を聞くには時間が必要です。自分の重い過去を、整理して人に語る訓練などまったく受けていない子どもたちです。彼女の生い立ちを聞くために、私は、留置場へ、次は少年鑑別所へと何度も足を運びました。

彼女は幼い時から、両親の不仲の中で、父の暴力、母の暴言を受けながら育ったのです。けんかをして母は家を飛び出していく。父は、寝ている子どもたちを蹴っ飛ばして、八つ当たりをした。妹たちをかばって父の前に立ちはだかり、「私を殴ってからにして」と言ったこともあった。殴りかかってきた父に金属バットで向かったこともあった。そうしたら父はビール瓶を割り、それを振り上げてきた。母は「おまえなんか生まれてこなければよかった」、「そんな悪い子は死じまいな」と怒鳴った。

見たくなかった、聞きたくなかった。でも逃げられなかった。幼い子どもはどこへ行って、だれに助けを求めればいいか分からないのです。どんなに虐待されたって、親にしがみついているしかないのです。

5年生になり、夜、外へ逃げられるようになりました。近所にたむろしている「先輩」から、「これをすえば忘れられるよ」とすすめられたのが、シンナーだったのです。

警察に補導される。家に連れ戻されれば、また殴られる。家出を繰り返す。中学に入る頃には、「自分なんか生きてたって、死んだってかまいやしない。親だって私のこといらないんだ。」と思っていたそうです。悪いことは何でもやった。喫煙、授業妨害、リンチ、暴走族、売春、暴力団、覚醒剤。

私に何が言えたでしょうか。ここまで自分を蔑み、傷つけてきた子どもに、お説教など効きめはない。

せっぱ詰まって、「もうこれ以上、自分をいじめないで。世の中のだれもあんたをいらないんだと思っているのでしょう。でも目の前に座っている私が、あなたに生きていてほしいと願っていることは信じて」というのが、精一杯でした。本当にそう思いました。

「神さま、ありがとうございました」

彼女は、「少年院にはぜったいに行きたくない」と言い張っていました。けれども、ほかに行く先はなかったのです。

審判の3日前、そのことを告げたとたん、彼女は鑑別所の廊下中に響きたわる大声で、「もういいよ、帰ってよ。私は極道になってやるから」とわめき出しました。

何を言っても聞きません。私は泣き出してしまいました。彼女も後ろを向きながら泣いていました。でも、心は通わず、時間がきたので私は帰らなければなりませんでした。

翌日もまた同じことが繰り返されました。せっかく初めて信じた大人がまた裏切った。彼女はそう思っているのだろうと考えるとつらかったのです。

自分の無力さを感じずにはいられませんでした。

ところが次の日、審判の前日、彼女は面会室に晴れやかな笑顔で入ってきました。

「先生、夢見たよ。先輩が出てきた。待っているから少年院に行っておいでって。私、少年院に行って、いい子になってくるよ」

私は思わず心の中で、「神さま、ありがとうございました」とつぶやいていました。人間の力を超えた何か、神さまが働いてくださったとしか思えなかったのです。

子どもたちを知ってください。

重大な結果をもたらす子どもの犯罪が報道され、世間は騒然としました。危険な子どもたちをもっと厳しく隔離して処罰せよ、少年法が子どもたちを甘やかすからこんなことになったのだ、少年法を改正せよ。そのようなことが声高に叫ばれ、とうとう2000年11月28日、少年法が「改正」されてしまいました。

被害者にきちんと情報を開示し、被害者の意見をきちんと聞いて審判するという制度を取り入れたことは評価できるところです。しかしそれ以外の部分、子どもたちへの教育的・福祉的支援により、更正と成長を支援しようとしてきた少年法の理念を疑い、刑罰化、重罰化をすすめるために「改正」された部分については承伏しかねます。

重大な犯罪に陥る子どもたちが、その生い立ちの中で、虐待や放任、過保護、あるいはいじめにあっていないことのほうが珍しいのです。だれも助けてくれない絶望的な弱さの中で、自分が生まれてきたことの意味を疑い、自分の存在を否定する。自分を大切にできない子どもに他人の命を大切にできるはずがありません。やぶれかぶれなのです。未来などまったく見えないのです。自殺と紙一重の殺傷事件を起こした彼らに、重い処罰を与えて何が生まれるでしょうか。

それで社会が少しでも明るくなるでしょうか。被害者が本当にそれで救われるでしょうか。私にはどうしてもそうは思えないのです。テロに対する武力報復では何も解決しないのと同じように。ますます恨みや怒りがつのり、疑心暗鬼となり、人の心が荒れてゆく社会にしかならないように思えてならないのです。

彼女は私に光をくれました。人間は捨てたもんじゃないんだよ、神さまが守ってくださるんだよって。それから10年。いろいろありましたが、彼女は今、二児の母として一生懸命生きています。そして私は教会へ帰ってくることができました。そして、この世界にさしこむクリスマスの光を、うれしく待っているというわけです。

ヨハネによる福音書15章1〜10節より

わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多くの実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。
枝がぶどうの木についていなければ,枝だけでは実を結ぶことはできません。
同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。
人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているならに、そういう人は多くの実を結びます。 わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。
人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。
そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって,わたしの父は栄光をお受けになるのです。
父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
もしあなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。
それは、わたしが父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。

恐い神さま

私はクリスチャンの両親のもとに生まれて、幼児洗礼を受けています。日本基督教団弓町本郷教会の付属幼稚園に通い、高校1年生までは教会学校にもかなり熱心に通う子どもでした。

弓町本郷教会は、子どもの目に教会の礼拝堂は大きく、重々しく、荘厳な場所でした。礼拝堂のいくつもの高い窓のステンドグラスには、ひとつひとつにぶどうの木と葉とぶどうの実が描かれています。幼い私にとって、ぶどうはさして魅力のある果物ではありませんでした。ステンドグラスにあるような大粒のぶどうは、巨峰かマスカットでしょうか。当時はとても高価で、子どもが食べられるようなものではありませんでした。小さなぶどうは、種があって、酸っぱくて。くねるように描かれているぶどうの木も、なんだか少し不気味で、美しいとは思えませんでした。そのようなわけで、なぜぶどうなんだろうと、子ども心に疑問をもっていたのを覚えています。

そのうちいつか、「わたしはぶどうの木。あなたがたはその枝である」という聖句を見聞きするようになりました。 教会学校で習ったり、カードをもらったりしたのでしょう。ステンドグラスのぶどうがこの聖句と関係があるのだ、とはたと気づいたわけですが、たくさんある聖句の中で、なぜこの聖句が選ばれているのだろう、簡単に取り替えることのできないステンドグラスの模様にしてしまうということは、教会にとって、それほど大切な聖句ということだからなのだろうか、とこれまた疑問になってきました。

この疑問への答えがうまく見つかる前に、私は教会を離れました。私にとっての神さまは、決して優しい神さまではありませんでした。いつも私を見張っている、悪いことをしたら一生懸命謝らなければならない、恐い神さまでした。いつも「いい子」にしていなければ、神さまは喜ばないと思っていました。

しかし中学、高校の思春期を迎えた私は、「いい子」にしていられなくなっていきました。

神さまが喜ばないだろうたくさんのどろどろした思いや欲望が自分の中に渦巻き、あふれてくるのを覚えていました。犯罪といわれるようなことをしたわけではありません。しかしそうした思いや欲望、それが教会でいわれるところの私の「罪」なのだろうと思いました。その罪を原罪といい、人間が生まれながらに抱えているこの罪を懺悔し、そのためにイエス・キリストが十字架で死んでくださったことによって、救われたことを感謝しなければならない、それが教会で求められていることなのだ、と理解していたのです。

それはとても窮屈なことでした。自分で望んでいたわけでもないのに、自分の内からあふれてくる様々な思いが悪であり、罪であるといわれても、私には納得できなかったのです。なんで私は「罪人」と呼ばれなければならないんだ。教会にいなければ、神さまがいなければ、私は「罪人」にはならないはずだ。生まれてきたありのままの私が罪を抱えていたと言われても、そんなこと私の責任ではない。神さまの突き刺すようなまなざしは、とうてい私には耐えられないと思うようになりました。

そして、教会へ行くのをやめました。特別の用事がないかぎり出かけるのが当然だった礼拝には行かない、と決意することは、当時の私にはかなり覚悟のいることでした。でもこのままでは息がつまってしまう。とにかく神さまから逃げようと思いました。私がありのままであることを認めてくれる世界を探そう、いつもいつも罪を懺悔しなくてもよい世界へ行こうと思いました。しばらくは、神さまが追いかけてくるという恐怖にとらわれていました。逃げても逃げても、うしろから追っ手が迫り、私をつかまえて引きずり戻すのではないかという、背筋がぞっとするような感覚に、しばしばとらわれたものです。

聖書を開くことはなくなり、ドストエフスキー、ニーチェ、サルトル、カミュなどの哲学、文学にのめりこんでいきました。「神は死んだ」というニーチェのことばに胸が躍り、「人間の存在は無である」というサルトルのことばに熱く揺り動かされ、実存主義の世界にこそ真理があるのではないかと期待し、大学も実存主義を学ぶことのできる哲学科を選びました。卒論には、無神論的実存主義といわれているハイデガーを選びました。

大学を卒業するころまでには、次第に神さまが遠い存在になり、いつしか神さまのことを考えなくても生活できるようになっていきました。

当時は、女子大生の就職は超氷河期といわれていたこともあり、在学中に司法試験を受験することになりました。二足のわらじでしたが、運良く卒業前に合格することができたので、卒業してそのまま司法修士生となり、とりたてて大望を抱くこともなく弁護士になってしまったのです。結婚し、子どもが生まれ、小さな法律事務所を経営するようになり、神様とは無縁に暮らすことができるようになりました。

本当に今から思うと、神に祈らずに、どうやって生きてきたか信じられないほどなのですが、当時の私は、忙しい毎日の中で、やっと普通の人と同じになれたのだと思っていたのです。

子どもと出会う

弁護士になって7、8年してから、事務所の仕事のかたわら弁護士会の活動にも参加するようになり、子どもの人権救済センターの相談員となりました。学校や家庭で問題を抱える子どもや親から無料で相談を受ける活動です。学校でのいじめや不登校で苦しむ子どもがやってきました。犯罪を起こして逮捕され,家庭裁判所で審判を受ける子どもに会いに行きました。親に虐待されて逃げなければならない子どもの相談を受けました。虐待から救い出され児童養護施設に入居したにもかかわらず、その施設の中で再び傷つけられた子どもの裁判もありました。予想もしなかった重い現実、次々と出会う傷ついた子どもたちの現実に、私は打ちのめされるようになりました。

ある日、いじめられて自殺未遂をした中学生の少年が相談に来ました。両親が遺書を読み、意識朦朧となっている彼を発見して、命をとりとめた子どもです。彼が言いました。「僕が80錠飲めば死ねるという薬を、50錠飲んだ気持ちがわかる?死にたかったんじゃない。死ぬしかなかったんだ。毎日毎日、地獄のように苦しかった。あそこから逃れる道は、死しかなかったんだよ」

私には、何と答えていいかわかりませんでした。真っ暗闇を、ひとりぼっちでとぼとぼと歩きながら、死への準備を整えていった子どもがいたのです。どんなにさびしかったことでしょうか。どんなに辛かったことでしょうか。でも、だれも彼に寄り添うことはできなかったのです。彼がかろうじて命をとりとめたから、私は彼の話を聞くことができたけれど、この地球上では、どれだけの子どもが何も語ることができないまま死んでいったことでしょうか。そして今なお、どれだけの子どもが、真っ暗闇をとぼとぼと歩いていることでしょうか。

母親と義理の父に何か月ものあいだ殴られ、蹴られ、最後は食事も与えられずに死んだ2歳の子どもがいました。どうして、この子が死ななければならないのですか。この子は、何のために生まれてきたのですか。どれほどに、親に愛されたかったことでしょう。優しくしてほしかったことでしょう。でもその思いは受け入れられることなく。逃げることも助けを求めることもできず、恐怖にさらされながら、死んでいったのです。

幼いときに親に捨てられ、児童養護施設で育った少女がいました。中学を卒業し、働く場所もなく、住む場所もなくなり、売春をして暮らしていました。犯罪を起こすおそれがあるとして、警察に保護され、家庭裁判所に送られてきました。私は付添人に選任され、少年鑑別所に入れられたかに所と面会しました。あまりにあわれな育ちを聞いて思わず涙を流してしまったのですが、そのとたん彼女は「てめえなんかに同情されたくないんだと!」と怒鳴り、それ以上、口を開かなくなってしまったのです。

大人は同情して近寄ってくるけれど、手に負えない子どもだとわかると見捨てていく。そのことを何度も何度も経験してきた子どもは、もうこれ以上傷つけられたくない、だから大人を簡単に信用しなくなってしまいます。ヤマアラシのように体中の針を逆立てて、ひとを寄せ付けようとしないのです。私は途方に暮れました。

無力さから祈りへ

死ぬか生きるかの瀬戸際に追いつめられた子どもたちと出会う日々。なぜ子どもがこれほどに苦しみ、絶望しなければならないんだ。なぜこんなにさびしく、傷つけられて、ひとりぼっちのまま放り出されているのか。どうしてこんなにむごいことが平気で起きているのか。世間の冷酷なまなざしに怒り、役に立たない自分の無力さが悲しく、悔しくて、一晩泣き明かすこともしばしばでした。

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をお読みになった方もおられると思いますが、あの中で、私にもっとも鮮明に焼きついているシーンがあります。兄のイヴァンが、弟のアリョーシャに、神の存在について論じる場面です。イヴァンは、ロシアで起きていた幼い子どもへの虐待の例を次々と示すのです。

攻めてきた軍隊の兵士に虐殺される幼子。そそうに腹を立てた両親に虐待され、泣き叫ぶ子ども。そのあまりの理不尽な現実を前に、イヴァンは「あの子どもたちの涙の一滴、血の一滴まで贖われることが証明されないかぎり、俺は神の存在を信じない」と言うのです。

自分自身が子どもたちの悲惨に直面するようになり、どうすることもできない圧倒的な無力感の中で、私はこの場面を思い出しました。そしてイヴァンとは逆のことを思ったのです。私は、あの子どもたちの涙の一滴、血の一滴を抱きとめてくれる神にいてほしいと。いてもらわなければならないと。

教会を離れ20年を経て、再び祈るようになりました。「神さま、私はあなたを裏切った人間です。だから私を救ってくださいとは言いません。でもどうか、あの子どもたちだけは抱きとめてください。私たちには、どうすることもできないのです。あの子たちの苦しみや悲しみを抱きとめてくださるのは、あなたしかいないのです」おろおろと、しっかり必死に祈りました。

そして気づいていきました。この世の中で、最も無垢で罪のないまま、最もむごい十字架上の罰を受けて苦しみもだえて死んでいかれた御子イエス・キリストがおられる。あの子どもたちの苦しみに、何の罪もないあの子たちの苦しみに、最後の最後まで寄り添ってその苦しみを共にしてくださる方は、イエス・キリスト以外にはおられないのだと。

祈りは聞き届けられていきました。神は生きて働いておられるということを、毎日のように、目の当たりにする日々となりました。決して、いつもいつも私が望むようにではありませんが、私は何度、「神さま、ありがとうございました」と祈れるようになったことでしょうか。

いじめられて自殺未遂をした少年の話を聞いてどうしたらいいかわからず、泣いていることしかできなかった私に、彼が言ってくれました。「子どもの話を、こんなに一生懸命聞いてくれる大人がいると思わなかったよ」と。私は救われました。そうか、子どもが求めていたのは解決策や回答ではないんだ。そこで自分が苦しんでいるということを一生懸命聞き、何もできなくても、そこで一緒に悲しみ、苦しんで、考えてくれる人なのだ。子どもの人生を理解してあげることなどできやしない。代わって生きてあげることもできない。でも、子どもの話を一生懸命聞いて、その場にとどまり、一緒におろおろすることでいいのなら私にもできるかもしれない。それしかできないのだ。それでいいなら、この活動を続けていこうと思えるようになったのです。

あの2歳の子どものように命を落としていった子どもたちに、私たちはたどりつくことができません。でも命を失った子どもたちの涙、辛さを決して無にはしないという決意が、私の中に揺らぐことなく根づいていきました。一人でも多くの虐待される子どもたちを救い出そう、そして虐待が起きる要因をつきとめ、親たちを支援し、子どもたち命を守ろうという活動として着実に広がっていきました。

口を開いてくれないまま3回の面接が過ぎていった鑑別所の少女も、鑑別所の中で思わぬ事件が起きて私に相談をしなければならなくなり、再び口をきいてくれるようになりました。彼女はそれからも転びつつ、辛い人生を歩んでいます。でも、どうにもならないときでも、私の手が届かないときも、祈ることができるようになりました。「神さま、私は今、あの子がどうしているのかもわかりません。何もしてあげることができません。どうか神さま、あなたが、あの子のそばにいてあげてください。あの子がいつか、自分はひとりぼっちではない、あなたがいつも一緒にいてくださるということが、わかる日がきますように」と祈ることができるようになったのです。

ふたたび教会へ

そのような中で、家族から逃げなければならない、帰るところがない、安心して一緒に考えてくれる人がいない、そのために野宿をしたり、体を売ったり、犯罪に巻き込まれていったりする思春期の子どもたちのために、子どもたちのためのシェルターがほしいと願い続けてきました。その夢が、2004年「カリヨン子どもセンター」の設立という形で実現しました。虐待や家族崩壊、飛行などの苦しみを抱えた子どもたちが、これまでに70人、このシェルターに避難しています。ここで1、2ヵ月ゆっくりと体と心を休め、弁護士やスタッフと相談しながら行く先を見つけ、再び出発することができるようになったのです。

傷ついた子どもたちのためと思って祈り始めたつもりでしたが、本当はその子どもたちの傍らにいて苦しくなりすぎたため、祈らずにいられなかったのです。15年ほど前にそう気づいたものの、教会へ戻るまでには、それからまだ10年の月日がかかりました。本当に強情だったと思います。神さまは念入りであられたと思います。

ふたりめの子どもが生まれたあと、職住接近をしなければやっていけなくなり、文京区内の事務所の近くに引っ越すことになりました。紹介されたマンションが、なんと弓町本郷教会のまん前。毎日、窓から教会の十字架が見える生活になってしまいました。クリスマスのイヴ礼拝の光を見た時は、あまりの懐かしさに子どもをおぶったまま、そっと礼拝堂に入ったものです。数年後、3人めの子供が生まれ、その子が小学校にあがりました。弓町本郷教会の副牧師のお子さんと同じクラス。毎日登校する子どもを送って、牧師夫人とおしゃべりをするようになりました。そして少年法「改正」反対運動が始まったころ、弓町本郷教会の社会委員会が私を講師として呼び、子どもの話をさせてくださいました。「改正」反対署名にも協力してくださいました。

これでもか、これでもかという波状攻撃。戻ってこい、戻ってこいと神さまが引き寄せる引き綱が見えるような10年間でした。

もうこれ以上、我を張っても仕方がない、しばらく礼拝に出席して考えてみようと思ったのが1999年のクリスマス。半年後の2000年のイースターには、もういいや、神さまには負けた、と信仰告白を決意しました。

懐かしい礼拝堂の最前列に座り、信仰告白式を終えた時、神さまはこの30年のあいだ、わがままな放蕩娘をずっと見守り、導き続けてくださっていたのだということに気づきました。なんという忍耐、なんという遠大なご計画、なんという暖かさ。涙があふれて止まりませんでした。

つながれていた枝

ぶどうの木の聖句をしっかり読むようになったのは、それからのことです。読むたびに新しい感動が呼び起こされます。

果汁がたっぷりの、ぶどうの実のみずみずしさ、かぐわしさのイメージ。おそらくこれは、おいしいぶどうがたくさん食べられるようになったためであるかもしれませんが、大人になってワインのおいしさを知るようになったからかもしれません。

その身を結ぶために、幹から枝まで導管の中をふつふつと静かに流れる、透明で清らかな水分や養分のイメージ。幹から枝へ、静かに命が送り届けられているというさまを実感します。

ぶどうの木の世話をする農夫。初めは、なぜ幹が神さまでないのだろうと不思議に思っていました。でも気づきました。枝は、農夫とはじかにつながることができないのですね。人間は、神さまにじかにたどり着くことができないということだと思いました。枝は幹であるイエス・キリストにつながることでしか神にたどりつけない、生きていくことができないのだということなのだと思いました。

農夫は、厳しいお方です。実らない枝を刈り取り、焼いてしまわれる。私も焼かれた枝だったのだろうかと少し不安になります。そして、あまりに実を結ばない枯れた枝ばかりになってしまい、これ以上には救いがないと思われたからなのでしょうか。罪のない幹そのものを根こそぎ引き抜き、十字架として焼いてしまわれた。もちろん枝も一緒に焼かれた。

でも神さまは、根こそぎ焼かれてしまうという罰を受けたぶどうの木に、すっかり新しく清く芽生えさせたぶどうの木の枝が再びのびてつながることを許し、新しい命を送り届けることをお許しになったのでしょう。

私たち枝がぶどうの木につながろうとしているかぎり、ぶどうの木も枝につながろうとしてくださる。そしておそらく、農夫は刈り取るだけでなく実を結ぼうとしているが、力が足りず枯れそうになる枝に手入れをし、継ぎ手なさるということもあるのではないかと思います。

私は、ぶどうの木から離れよう、逃げようとしていました。けれどもぶどうの木はぎりぎりのところまでつながろうとしてくださっていた。そして農夫は、なんとか持ちこたえさせようと手入れをしていてくださっていた。長い年月、自分ではまったく気がつかないまま、枝はぶどうの木につながれていたのです。その奇跡を今、深く新たに感じ、かみしめています。どれほど感謝しても感謝しきれないほど、感謝しています。

「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」ということばほど大きな励ましはないと思います。裏を返せば、イエス・キリストにつながっていれば、何かができるということだからです。「わたしのことばがあなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい」私は、その言葉を信じています。私ひとりでは何もできません。この世界で苦しむ子どもたちに、何もしてあげることができません。でも、イエス・キリストにつながっている枝として命を送られ、ことばを送られているかぎり、神さまは私を用いて、なすべきことを、なさしめてくださるのだと。そうしていただきたいと心から願っています。

教会のステンドグラスに、なぜぶどうの木が描かれているのか。私はその本当の意味をようやく知りました。そして礼拝に出席するたびに、枝であることの喜びを思い起こすことができるようになったのです。

「子どもたちに寄り添う (単行本)」坪井 節子著 (いのちのことば社 より 一部抜粋)

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