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クリスチャンの声 三木昭三さんより 『 教会と私 』

命のある限り、恵みと慈しみは、いつもあなたを追う(詩編23.6)
決して短くはなかったこれ迄の人生を回想する時、いろいろな事があったが、教会と結ばれていたからこそ今日の自分があるのだとつくづく思う。
さてここで、過去を少年期、青年前期、青年後期、壮年期、中高年期の五期に分け、「教会と私」を回顧してみたい。

少年期に於ける「教会と私」

村の若い人達が次々と徴兵されてゆくのを見聞きしたが、小学生の私には平和で楽しい日々であった。

日曜毎に父に連れられて、バスで徳島市の教会(現在の日本キリスト教・徳島教会)に通った。 礼拝は大人も子供も一緒で行われ、私達子供は礼拝中は手持無沙汰で、早く終わらないかと願ってひっそりしていたが、牧師先生の祝祷の手が挙がると、とたんに元気が出た。

教会の食堂でお母さん達が作って下さった食事を頂き、小学生高学年と中学生の合同教会学校が持たれた。先生は米国より来られ長年この教会で奉仕しておられる婦人宣教師のミス ランプキン先生であった。

テキストは非常に簡単な英語で書かれた聖書絵本で、先生がそれを英語と日本語で説明して下さり、その後いろいろなゲームをして遊んだ。私には、先生が非常にゆっくり話される英語を、時々うなづいて聞いている中学生のお兄さん、お姉さん達が大変偉い人のように思えた。

私は、先生が遠い米国から四国のこの小さい都市に何故単身で来られたのか聞いてみたいと思っていた。

ある日、先生は、回心したパウロがいろいろな試練に会いながらキリスト教を伝えた事を絵本で示しながら熱っぽく話された。先生はご自身の事については何も話されなかったが、子供心に先生の来日された理由が判ったような気がした。

このように、少年期の私にとって、教会は友達との愉快な遊び場であると共に、先生のお話を通じて、少しずつ神様に向って、目が開かれていたのではないかと思う。

青年前期における「教会と私」

昭和十六年十二月八日、中学一年であった朝、突然ラジオが軍艦マーチを奏で天皇陛下の英米両国に対する宣戦布告の放送があった。

戦争は互に憎しみ合い、殺し合う。神様はこれをどう見ておられるのだろうか?天皇陛下は現人神と言われているが、聖書の神様とどう違うのだろうか?不可解であった。

戦局は悪化を辿り、教会の所在する徳島市も米軍機の空襲を受けて大半の家屋が焼失した。教会員も多くの方が焼け出され、縁故を頼って疎開・離散して行った。田舎にあった私の家も爆風で破壊され、父は健康を害して病床に伏していた。

中学の最終学年の時、学級は閉鎖され、クラス全員瀬戸内海を渡って名古屋市郊外の飛行機制作所に勤労動員され、特攻機体の整備補助作業員に従事し、将来に対する希望の持てない毎日であった。

神様は本当におられるのだろうか?

少年期に少しずつ神様に向けて開かれつつあった私の目は、急激な環境の変化を受けて霞(かすみ)が掛って行ったように思われる。

青年後期に於ける「教会と私」

昭和二十年八月十五日、天皇陛下のラジオ放送があった。ザーザーという雑音で殆んど聞き取れなくて、理解できたのは「朕は堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す」というお言葉位であった。かくして三年半に亘る戦争の結果、我国は焦土と化して連合国に無条件降伏した。病気であった父は同年七月末召天した。

私は当時破れた風船のようで、少年時代に教会学校で学んだ聖言も神様についての霊感も私から抜け出してしまっていたように思う。そして郷里徳島の旧制専門学校で薬学を勉強し、卒業して大阪大学微生物病研究会に勤務した。

米国留学を希望していたので、大阪YMCA英語学校で夜勉強した。ルツ記等聖書が英語の教材として使用される場合が多かった。又協力教会の牧師先生がされる聖書の講演があり、それを聴くのが楽しみであった。

中学校以来私の心から離れていた聖書の御言葉が蘇って来、これからの人生を導いて頂く心の糧を求めていたように思う。

あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯(詩編119:105)。

壮年期に於ける「教会と私」

昭和三十年八月、米国ミゾリー州立大学へ留学のため神戸港から船出した。船は最短距離を採る為北上し、ソ連のカムチャッカ半島に近付いた頃大台風に遭遇し、三万トンの船は木葉の様に激しく揺れ、約丸一日船酔いで苦しんだ。

イエス様が伝道を始められる前、荒野で四十日間何にも食べず悪魔の誘惑と試練をお受けになった聖書の個所を思い出した。あの台風は来るべき試練の心構えをさせて下さったのであろうか?

大学の授業は殆んど理解できないままドンドン進み、毎回小テストがあった。食事と睡眠以外はすべて勉強に使う様努めた。友人に誘われて出席する教会は私にとって身体と魂の安息の場であり、安息日は神様が私の為に定めて下さったように感じた。

私に大変親切な寮長が或時私に行った。「三木君、僕の叔父は日本軍と戦って戦死した。今我々が同じ大学で勉強できるなんて本当に神様の恵みだね」。私は答える言葉が無く、深く頷いて固く握手した。

米国の教会での交わりを通じて、帰国したら洗礼を受けて教会に連なり、信仰を全うしたいと思った。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である(ヨハネ15:5)

中高年に於ける「教会と私」

六年間の留学の後帰国し、三菱レイヨン鰍ノ就職し、インマヌエル教会で受洗して現在の家内と結婚した。四人の男子に恵まれ、家族で聖日礼拝を守る事のできるのを感謝した。子供達は健やかに成長し、孫も我々夫婦を見下ろすまでに背丈が伸びた。そして我々が今回、四十七回の結婚記念日を持つ事の出来たのは本当に主の恵みである。

昭和五十九年定年退職し、医学・薬学に特化した小さな翻訳会社を作った。東大医・薬学部、東京医科歯科大学の先生方のご指導を頂く為、十六年前に事務所を新橋から本郷に移し良きご指導を頂いている事を感謝している。

七年前、脚の動脈硬化を起こし歩行が不自由となった為事務所に宿泊・調理設備を設けて泊まり、家内が四男と住む自宅(小平市)から通勤して食事、清掃等をしてくれている。

二年前、駅の階段の昇降等に危険を感じるようになり、インマヌエル中目黒教会から弓町本郷教会へ、一昨年九月転会させて頂いた。家内も一緒にと話し合ったが、五十年以上ご指導頂き、又多くの友人がいる今の教会を直ぐには去り難いと言うので現在別々の教会で礼拝を守っています。

私は信仰を守り抜きました(テモテ4:7)。これが私の理想とする辞世の御言葉です。 現在弓町本郷教会に於いて礼拝、成人科、祈祷会、全体聖書の学び等で聖書による神様の豊かな語りかけを開くことが出来るのは本当に感謝です。その中で特に私の心を捉えたメッセージを下記します。

  1. すべての人は悪魔の誘いを受けている。
  2. 誘いに落入らないために聖書を通じて神の給りかけを聞く。
  3. 自分を招き、導き、背負って下さるキリストとの人格的つながりを持つ。
  4. 神の信実に触れ、自己をキリストに結び付け祈りつつ生きる。
  5. 同時にキリストによって祈られている自分であることを知る。
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