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クリスチャンの声 近藤益徳さんより 『 信じて生ききる 』 - 夕礼拝 証にて

「あなたがたは、今は罪から開放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちのキリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ローマの信徒への手紙6章22-23節)

夕礼拝にて

只今お読みいただいた聖書の箇所は、私たちが神様から与えられている永遠の命について、パウロが確信を持って述べているところです。この6章の前半では、仮想の反対者との論争を展開しています。

罪の奴隷である身に起こる「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました」(ロマ5:20)だからといって、罪に仕える奴隷として死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか。

この時代の奴隷制度では、全ての時が、主人のもの・・・だから、2人の主人に仕えることはできない。当然義に仕えるものとなるべき。と示しています。

われわれは、神のゆるしの中にいるといい、生活をしていますが、さまざまな試練に会ったとき、この信仰を守り続けていくことが出来るか、疑問であります。 はなはだ心許ない思いがいたします。

学校にいるころは

学校にいるころは「落第の夢を見たり、既に卒業して就職しているにもかかわらず卒業の単位を落とした夢を見たりしました。」

会社にいるころは

会社にいるころは、上司や得意先とのトラブル。明日は会社に行きたくないといったような脅迫感に襲われることも・・・

近隣との揉め事。などもあるかもしれません。

不安な生活

あらゆるところに、我々は不安を感じて生活をしていると言えます。

家族のこと、親戚のこと、さらにはますます進む高齢化社会の今後。

自分のさまざまなエゴが他の人を傷つけたりしていることも多いと思うのです。ここにこそ、人間としての弱さが現れていると思います。

しかしながら、我々がもっとも不安に思っていることは、自分の体のこと、病気や不具合、家族に迷惑をかけることになると申し訳ない。などでありますが、最終的には自分の最後、すなわち「死」をどう迎えるかということになるでありましょう。

2007年6月初めに

私は2007年6月初めにT夫妻を相次いで天に送りました。

肉親を失った時よりも喪失感を味わいました。見送るものの立場として、我が家の居間の壁にある額縁、教会の霊安室にある夫妻の遺影、讃美歌の中で故人愛唱曲に出会うたびに感じることは、何としても寂しく、口惜しい思いでした。しかし、「T夫妻は、滅びることのない命を得て、神の御許に居られるのだ」と信じることで、そのつらさ・空しい気持を乗り越えることができました。現在でも、時に触れ、折に触れT夫妻を思い出す生活を送っております。この世的に申せば「このように夫妻を身近に感じながら暮らす人たちの想いと共に、天上から見守っていてくださる」ということになるのでしょうか。

私は、社会人になってから、つまり、東京に出てきてから、弓町本郷教会にお出席するようになってから、50年弱の間ずっとお世話になった方であり、現実の社会的な見方ですれば、私などが、最も人間性が現れる人生の最終段階に直接関わるというようなことが起こるなんてことは、想像だにいたしませんでした。

TH夫妻が天に召されるまで

TH夫妻が天に召されるまでの1年半ほどの間に感じたことを記します。

2006年の秋口にT氏の状態が相当に良くないと夫人から伝えられました。お二人から、私たち夫婦が信頼してもらえたのだ。との思いを強くいたしました。

生前あんなに大切にされていた日曜日ごとの主日礼拝に出席することが叶わなくなり、自室で横になって過ごされました。体調が優れているときはリクライニングシートに腰掛け、CDから流れるバロック音楽に耳を傾けたり、短時間ならば読書をしたりの生活を送っておられました。その内に夫人も体調をくずされ、お二人で、ご家族の世話になりながら過ごされたのです。

(実は、ご自分の事には触れられなかったのですが、夫人の体調も良くなかったことが後刻、ご親戚のお話で分かりました。何と夫人が精神的に強い人であったのかとの思いを強くしたのです。)

このように病状が進む前から、私は約2週間に1度のペースで教会の週報や月報など印刷物をお届けるために伺いました。病状を聞いたり、教会のことを報告したり約20分を過ごした後、握手をしながらお祈りをします。

 私は、お辛くなる病状が少しでも改善されるように、癒されるように、更に、神によって与えられる永遠の命を信じて、神が守ってくださる生活には不安がない、と。神が導いてくださること信じて、祈ります。

病気の中で

すると、続いて、T氏は病気の中でも、神が共にいて働いてくださっている。それを信じることで魂の平安が与えられていることに対する感謝、私の訪問に対する感謝、更には教会の将来についての神の導き、私の教会生活が神の守りのうちにあるように、と祈られます。

その祈りの口調の明るいことに、見舞っている私が逆に慰められる思いがしました。迫り来る死に対する恐怖や、生に対するあきらめといった感情は感じられないのです。天にいます神の懐に抱かれて過ごせるのだ。との強い信念を感じました。(勿論、痛みやお薬による副作用のつらさは感じておられたのでしょうが・・。

しかしながら、最後の1ヵ月ほどになりますと、T氏の声に出しての祈りはおできにならなくなりましたが、私が祈って最後「アーメン」と唱えるとき、唱和されるT氏のお声と握手の際の力強さに、「僕は病気に負けていないぞ。神さまは守ってくださっている。その御許に行けるのだ。」という強い意志を感じました。たまたま同行した妻は今でも、同様の感想を申しています。 一方、私はといいますと、お宅から近くの駅までの道を、厳しくなって行く病状のことを思いつつ「これからどうなって行くのだろう?お辛そうに見えたが、大丈夫なのだろうか?そしてわたし自身は?」と耐えられなくなる思いを何度か味わいました。お屋敷町を通りながら、見上げる空の暗かったこと、これは、この世に命を置く生身の人間として陥りがちな、信仰の弱さから出たものであったと思います。

ローマの信徒への手紙6章22-23節

ここで私は先ほど読まれた聖書の箇所が思い出されるのです。T氏は、社会的にも、人間的にも傑出した方であり、しかも、人間としてのさまざまな苦しみを経験された方です。その方が、その人生を省みるとき、行き着いた聖書の箇所なのです。

「あなたがたは、今は罪から開放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちのキリスト・イエスによる永遠の命なのです。」と。(ローマの信徒への手紙6章22-23節)

T夫妻は、「神の賜物は、わたしたちのキリスト・イエスによる永遠の命」 を信じて天に帰って行かれたと、私は信じるのです。

また、「信仰者の死に臨む姿とはこうなのだ。」との証を示して下さったの  だと思えてなりません。感謝の日々を過ごしています。

当日の讃美歌(21)は226,579(T氏愛唱賛美歌)。

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