クリスチャンの声 山本義人さんより 『私が教会に行く理由 』
私は、2009年12月20日のクリスマス礼拝で弓町本郷教会のメンバーになりました。私は、現在、法科大学院で法律を学んでいて、毎日勉強に追われる日々を送っています。
しかし、毎週日曜日になると「教会に行かないと!!」と思わされます。それは、毎回はっとさせられる礼拝中の説教を楽しみにしているからです。 (面白いと思える - ギャグっぽいという訳ではないですよ。念のため。-素敵な内容な説教が毎回なされます。)
ある日の説教について-自分なりの要約と感想
ここでは、私を教会へと駆り立てる魅力ある説教について、特に感銘を受けたものの内容について自分なりの要約と感想を書きたいと思います。この文章を読んでいる方が少しでも教会に興味を持ってくれたら幸いです。
ルカ:22:31〜34 「あなたのために祈っている」
イエスが、十字架にかかる前にペトロの裏切りを予告する有名な場面です(ちなみに、ペトロは、この後イエスが逮捕された時に、自分も一緒に逮捕されることを恐れて鶏が鳴く前に3回もイエスのことを知らないと言います。)。
イエスは、「シモン、シモン」と弟子のペトロに語りかけ、「あなたを誘惑にかけようとするサタンの願いを神は聞き入れた。あなたは、私を裏切ります。」と言って、ペトロの裏切りを予告します。しかし、イエスはペトロを怒ったり、見放したりすることなく、自分を裏切ると分かっているペトロのために、なんと「私はあなたのために祈っているよ。」と言うのです。
ペトロは、強い信念と自信に満ちた弟子でした。そんな強い信念や自信さえも、自分ではどうすることも出来ない困難のもとでは容易に崩れ去ってしまいます。
ペトロはイエスの仲間であるとばれそうになった時に、「イエスなんて知らないって言えば、君は助かるよ!!」というサタンの誘惑に負けて、あっさりと「イエスなんて知らない」って言い放ちます。しかも、3回も。
この箇所は
私は、この箇所をいつも、「ペトロはなんて愚かな弟子なんだ・・・。」と思って読んでいました。実際に読んでみると、みんなそう感じると思います。しかし、説教を聞いてからは考え方が完全に変わりました。以下が、説教の要約です。
人生とは誘惑の連続
誘惑に負けてしまったペトロの態度は人間として仕方のないものです。なぜなら、人生とは誘惑の連続だからです。誘惑に陥らない人なんていない。むしろ、「誘惑に陥るな」ということは「あなたは、この世界を生きるのをやめなさい」と言っているようなものなのです。
誘惑にかけようとするサタンの願いを神様が受け入れたということ自体、神様は私たちが誘惑に陥ることを認めているということを示しています。この世を生きるということは、常にサタンの誘惑の中に生きているということなのです。
つらい状況にあって誘惑に陥ってしまうというのは、弱い人間としてはどうすることも出来ないことなのです。そして、そもそもつらい状況に自分が置かれているのは神様が自分から遠ざかっているわけではない。
困難は一人で立ち向かうべきものではない
困難は自分ひとりで克服すべきものではないのです。
イエスの逮捕を目撃したペトロの心境は、「これからは自分ひとりで危機を乗り越えなければならない」というものだったでしょう。
ペトロはイエスを裏切った後、その不信仰のなかで、自分はどうすれば良いか分からずに右往左往します。
けれど、そうした困難は一人で立ち向かうべきものではないのです。イエスは自分を裏切るペトロに対して、「しかし、私はあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と語りかけています。
どんな状況の下でもイエスの祈りは決してなくならず、困難にあって挫けても、自分が立ち直るまで、そして立ち直ってからも私たちはその祈りの中で生きることができるのです。
苦しい状況にあるとき
この説教を聞いたとき、なんで自分はつらいときにひとりで抱え込んでいるんだろうと思いました。苦しい状況にあるときには、私たちは「自分の不信仰が神様を自分から遠ざけてしまっている」とか「そもそも神様なんているのか」という風に考え込みます。そして、そういう状況で誘惑に負けてしまうと、それだけで自分を責めてしまいます。けれど、そもそも苦しいということは神様が遠ざかっている訳ではない。誘惑に落ちることなく人生を歩むことは出来ない。
神様が奇跡を起こしたこと
人間には無力、限界、絶望、終わりがあります。自分の力では如何ともしがたい困難に出会うことがあります。自分では解決できない困難に出くわしたときの最後の砦として、神様に祈れば良いと考えている人が多いと思います。現に、神様は、人間を救うためにいくつもの奇跡を起こしてきたではないかと。
しかし、神様は困難を解決するために奇跡を起こしたのではないと思います。人間には理解出来ない、人間の力の及び得ない「存在」が確かにある。そして、そういった「存在」は、人間の世界に無関心なのではなくて、常に見守って下さっている。そのことを示すために、奇跡を起こしたのだと思います。奇跡の真の目的は、困難を解消することではなくて、「私が常に見ているんだよ」ということを私たちに示すことなのです。
祈るとき
私たちが祈るときも、いわゆる「ご利益」を求めることが目的であってはならないと思います。祈りとは、神様との会話です。「今日も、私を見守ってくださっていますよね?」、「自分ではどうしようもない状況に置かれているんですが、私は一人ではないですよね?」という神様への呼びかけ。これこそが、祈りであると思います。そうした祈りが出来るようになってから、自分を支えてくれている人たちの存在に気付くことができました。
説教を聞いたあと
説教を聞いたあと、自分は一人ではなく、親や友人など自分を助けてくれる人が周りにはたくさんいる。そういうことに気付くことができました。
さて、以上がごくおおまかな要約と私の感想ですが、教会での説教に興味を持たれた方は是非一度教会に遊びに来てください!!