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嶋さんより 映画「カティンの森」を観て

2010年の4月このようなニュースを覚えていますか?

「ポーランドのカチンスキ大統領と妻が乗ったワルシャワ発のツポレフ154が10日、ロシア西部スモレニスクの空港に向け着陸態勢に入ったところ墜落した。カチンスキ大統領を含む96人全員が死亡した。」

それは、第二次大戦中に旧ソ連軍により、ポーランド軍将校らが大量虐殺され埋められているカティンの森へ向かう途中の事でした。

映画「カティンの森」

2009年夏、岩波ホールで「カティンの森」を観ました。監督はアンジェイ・ワイダというポーランド人で、父親をカティンの森で亡くしているそうです。

私の友人がコルチャック先生に強い印象を受けたようで、それで私は誘いに応じたのでした。

私にとっての戦争解釈は、映画から受ける印象という実に中身のない空想に過ぎませんですから、実際に戦争の中に居られた方々が語る同じ単語は、私のそれと異なると思います。(体感されている方々の「戦争」という単語が肉なるもので私の言葉は漢字に過ぎません。) )

この映画を視聴して受けた個人的な経験は次のとおりです。

戦争を題材とする映画で、初めて新しい光が照らされている事を発見したのでした。しかし、今思うと、他の映画にも、同じ光があったのかも知れません。ただ、これ程迄に。

はっきりと監督が望むテーマの輪郭を確認できるものは、私の貧弱な映画歴の中に存在しません。

それは戦争を聖書を通して見つめ、神へ祈るのです。

カティンの森での大虐殺を背景に、人種問わず人間の悪事と罪を彫り上げていきます。

敵国である旧ソ連軍の秘密を口に出す仲間を戒め、あげくの果てに追放するポーランド兵達の罪も、監督は容赦なく冷静に映像に残しているのでした。

どちらが正義か悪か、これだけの苦しみを受けたのだ、という感傷、苦情、片寄った思考は微塵もなく、敵も味方も全てが一致して人言であること、その確かな弱弱しい存在の私達はどのように生活していけば良いのでしょうかと投げかけているように思えてなりません。

行き場の特定できない怒り、悲しみは、物語の中で、見事に祈りに帰結して行きました。

監督の意図というより、問いかけた結果、自然と祈りに交わっていった様子に感じられました。

祈りとは、耐えられない現実を直視しない逃げのように思いませんか?

なぜなら、祈ることは、絶望から這い上がろうとする力を止め、自分ではもうどうしようもないと完全に降参する時の最終手段だからです。

しかし、先程記してしまいましたが、もし、人間が曖昧模糊とした存在だとするならば。もし絶対的真実が人間の中になかったとしたら、何を希望して生きていけば良いのでしょうか。

だとすれば (祈るしかない)となります。もしくは私達には(祈りがある)とも言えます。

映画の世界は、明らかに絶望的でありましたが、場面の節節にワイダ氏の祈りが聞こえてくるのでした。

その光は、硬直した死体をやさしく温め思いもよらぬ希望が生まれるのでした。

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