村上春樹『1Q84』 〜タンジブルな(手触り感がある) 愛〜

石井花梨さんより

最初に、私は、村上春樹の20年来の読者であり、彼の小説、エッセイ、インタビュー、翻訳等、ほぼ全ての著作を読んできていますが、村上春樹やその著作について語ることが得意ではありません。恋している人の顔ははっきりと思い浮かべることができないように、語る傍から、私の感想も、小説の事実も逸れていってしまうように感じるのです。呼吸をするたびに、組成を変えているようです。

それだけ、彼の提供している物語の強さが、私の人生に深く根をおろしています。そのような一ファンとしてですが、『1Q84』を通じて感じたことを少しだけ書かせていただければと思います…。

『1Q84』は、簡単にまとめると、孤独で人としていろいろ間違っている主人公の二人(青豆と天吾)が、10歳のときに手を握り合った経験ひとつを支えにして、再び出会うまでを待ち続ける話です。その手と手が再び結び合うまでには、無数の血が流れ、多くの困難が行く手を阻もうとしていました。また同時に、その二人を救おうとした手があったことも、読者は知っています。

二人が、その流れた血の量を自覚しているかは怪しいですし、今後それに贖えるようにつなぎ合っていけるのかはわかりません。(それがBook4、Book5という形で今後描かれるかどうかもわかりません)けれども、その構造を思うとき、私がここまで生きてこられたことにも、目に見える形で、あるいは見えないところでも、たくさんの血が流され、また守られてきたのだという思いにいたります。逆に、私のささやかな行為や、日々の祈りが、誰かを支えることがあるかもしれない、そう思わせる心の震えがあります。

『1Q84』には、村上春樹の作品の例にもれず、異界、不可思議で説明されない登場人物たち、性、暴力、たくさんの傷が描かれますが、その中心に据えられているのは「愛」です。観念的な「愛」ではなく、タンジブル(手触り感がある)なモチーフとして描きたかったと著者は述べています。観念的に語ることの大切さもありますが、村上春樹という比喩(メタファー)のスペシャリストが、タンジブルという“感覚”を説得力もって語ることを重視した、という点を興味深く感じます。

私は、虐待を受け家庭から逃れた子どもたちの保護や、自立支援を行う社会福祉法人で働いています。そこで出会う子どもたちは、己の存在を否定され、傷だらけです。社会資源や法律を駆使して、子どもが被ってきた不利益や暴力と戦う場合もありますが、そうした解決がすなわち子どもたちの心身を癒すとも限らず、大人たちにできることは少ないです。

けれども、私たちは、子どもたちが自分で立ちあがれるようになるまで、話に耳を傾け、衣食住を守り、それぞれの職種で役割分担をしながら寄り添い続けます。その関わりは、言いかえれば“タンジブルな愛”があるということを証明しようとしているようです。

こうした子どもたちを見ていると、「愛」への信頼感がとても弱いと感じます。実感を伴って理解できない、裏切られるのが怖くて手が出せない、けれども飢え渇いている…。

法人の職員や弁護士との出会いが何らかのきっかけになり、少しずつ自分の未来を切り拓こうとする子どももいれば、私たちのそばでは、立ち上がるタイミングを掴めない子どももいます。前者の子どもが成功し、後者の子どもが失敗したというわけではなく、私たちから受け取ったものを、人生の中でどのように位置づけるか、ということは本人にしか決められません。砂漠に水を撒いているようですが、その水はいつか砂の下に流れる地下水脈まで到達し、オアシスとなる日がくるでしょう。

私たちがそう願い、活動を続けられることもまた、これまで出会ってきた子どもたちが“タンジブル”な思いの交流を残していってくれたからこそなのです。

質感を伴って、安心や安全の象徴となる記憶は、確かに人を生かすのだと思います。それは、幼い時に両親に抱きしめてもらった記憶かもしれませんし、天吾と青豆のように他人と通じ合った記憶かもしれません。それを支えにして生きていく、あるいは再びそれに巡り合えることを信じて生きていく、いずれにせよ大切なお守りです。教えられたわけではないのに、その質感が「愛」の形であるのかもしれないと感じられるのは、根源的に、神様が私たちを愛してくださっているからと思います。

『1Q84』は、家族、コミュニティ、宗教、社会情勢など注目すべきテーマがふんだんに盛り込まれた小説です。今後、また別の視点からも、本著を読み解いてみることができればと思っています。

Merryy Christmas

★★★クリスマスを、心からお祝いします! ★★★

私事ですが、上記の文章を書かせていただいたすぐあとに出産をしました。 赤ちゃんのあたたかさ、重さ、おっぱいを飲む力強さなどに、 まさにタンジブルな愛を実感する今日この頃です。 妊娠中も現在も、幸いなことに母子ともに健康にすごすことができていますが、 分娩は初産であったこともあって、一苦労二苦労…でした。

今年は娘を得て、初めてのクリスマス。 クリスマスが近づき、プレゼビオ(イエス様が誕生された馬小屋を再現した飾り)を 見かけるたびに、陣痛中に宿屋がみつかず、結局馬小屋でイエス様を出産した マリアはどれだけ心細かっただろう…、ヨセフは立会い出産だったのかしら…などと 、自分の体験に引き付けて考えてしまいます。

イエス様は、生まれたその時から最も苦しい環境を知っておられた、 神様もその過酷な場所を選んで愛する我が子を送ったのですね。 日本ではクリスマスに向けて、人や街が賑やかになることは、 必ずしも信仰が基盤にあるわけではありません。 けれども、心にさざ波立つような慌ただしい毎日をすごす人が、一人でも多く、 光や音楽に癒され、大切な人たちと労わりあい、お腹いっぱいになって笑うことができますように。 迷子にならずに、安心できる居場所へ帰ることができますように。 そして、その道は、どこかで教会にもつながっていると思います。

どのようにクリスマスを迎える方のそばにも、必ず神様、 イエス様がいてくださるのだと信じています。どうぞ、 あたたかなクリスマスをお迎えください。