信仰告白

橋本和さんより

私が初めてキリスト教に触れたのは3歳、幼稚園のころでした。

その幼稚園では、みんながお昼ご飯の前に静かになります。

そして先生が喋ります。先生が喋り終わるとみんながご飯を食べ始めました。

このことを私はいままですっかり忘れていました。

こうして信仰告白をするにあたり、一番最初にキリスト教に触れたのはいつだったかと思い返してみて初めて思いだしました。

そうか、あれは食前の祈りだったのか。。。いまになって、20年以上経ってようやく分かりました。

3歳から7歳まで私はこうして先生が喋り終えるのを待ってお昼ご飯を食べていました。

当時はとても不思議な思いでした。いつもは落ち着きがなくとてもうるさいあの男の子も、おしゃべりが大好きなあの女の子も、声の大きい先生も、その時間だけはみんな目を閉じて手を合わせて真面目な顔をして静かにしていました。その時先生がいつもなんて言っていたのかは分かりません。その時の記憶はとても朧気です。

しかし、そのみんなが静かになっているシーンとした空気が心地よかったのは覚えています。

結局私はみんなが祈っていること、神様ということ、それらを碌に理解することがないままそこから引っ越し、それまでのお昼ご飯の習慣とは無縁な場所で新しい生活をしていくことになります。

そして私は15歳、高校生のときにこの弓町本郷教会にて再びキリスト教と関わりを持ちます。

祖母に薦められハイスクール科に通うことになったのがきっかけです。ここでは非常に楽しい時間を過ごしました。

朝全然時間に間に合わず「なぎくん、礼拝が何時に始まるか知っているかい?」と怒られたりもしました。

気の合う仲間にも恵まれ、知り合いも増え、少しずつ教会に通う頻度も増えていきました。

そのハイスクール科での生活で私自身の中のキリスト教の存在をより大きくした一つの契機がありました。

それはある年のハイスクール科キャンプの学びの時間です。その年のテーマは「祈り」についてでした。

どうして、祈りを捧げるのか、どうして祈りを声に出すのか、どうして一人の祈りをみんなで聞いているのか、そうした疑問が私の中で次々と浮かんだのをいまでも覚えています。

「お祈りとはね、神様と対話することなんだよ。」あのキャンプで私はそう教えていただきました。

対話することに、その対話の仕方にルールなんて、決まりなんてない、だからいろいろな祈りの形があるのか、その人それぞれの対話が祈りがあるのかそうハッと気づかされました。

神様の愛があり、その愛に感謝し、日ごろの出来事に感謝し、その出来事を神様と祈り対話することで報告し感謝をする。

それは人にとってなんて身近なことなんだろうかと考えるようになりました。

あのとき、いつもは落ち着きがなくとてもうるさかった男の子も、おしゃべりが大好きなあの女の子も、声の大きかったあの先生も、みんなそのお昼ご飯を食べれるということに感謝していたのだ。感謝を伝えるからこそ、みんな目を閉じ手を合わせ真面目な顔をしていたのだ。何も考えず何食わぬ顔でいつもお昼ご飯を食べていた私をみんなはどう思っていたのでしょうか、いまはもう分かりません。

ただ、そういえばお昼ご飯を食べている時間はなんだか妙な居心地の悪さ感じてあまり好きじゃなかった気がするなー、なんてことも思い出しました。

それはきっと私以外のみんなが私よりも圧倒的に、目の前にあるご飯に、その席に座れているということに、自分を構成する全てに、感謝し誠実な存在足り得ていたからなのではないかと今は思います。

しかし今の私は、どうしてこんなことで腹を立ててしまうのだろう、どうしてもっとその人と真摯に向き合えないんだろう、どうして大切にすることができないんだろう、と私自身の人としての未熟さを常日頃感じてばかりです。

だからこそ、祈るということ、感謝するということ、愛ということ、神様ということ、その信仰するという一つの流れの中に私自身が飛び込み人としてより誠実な存在足り得たいと思うようになりました。

そのためにもキリスト教を信仰し、より誠実な存在となるために神様からお導きをいただき、そして私はそれを感謝する。そうしたキリスト者として私はこれから生きていきます。このことをいまこの場お借りしまして私は告白いたします。

どうもありがとうございました。

Merryy Christmas

May you have a warm, joyful Christmas this year!