映画 『ワン・デイ 23年のラブストーリー』より

話題になった映画からピックアップ!

映画『レ・ミゼラブル』から ファンテーヌ役のアン・ハサウェイをこの映画で知り、他に彼女が出演している映画についても情報交換していたところ、ある方がメッセージを書いてくれました。

映画 『ワン・デイ 23年のラブストーリー』から 

Gさんからの感想とメッセージ

こんなにひどい話あっていいの?と思うような悲しい映画でした。
23年間のある二人の男女を描いているものです。

あらすじ(ウィキペディアより)
7月15日は「聖スウィジンの日」。1988年のその日、大学の卒業式の夜に出会ったエマとデクスターの2人は、深い関係になりかけたものの、その後は親友として付き合うことになる。毎年7月15日には直接会うか電話で話をするなど、友だち以上恋人未満の微妙な関係を続けつつも、2人はそれぞれ別々の人生を歩む。エマは教師から作家になる一方、売れないコメディアンのイアンと同棲するが、結婚することなく別れる。デクスターはテレビ番組の司会者として人気者になり、派手な女性関係を続けるが、すぐに落ちぶれ、そこで知り合った女性シルヴィーと結婚して娘ジャスミンをもうけるものの、すぐに離婚する。 デクスターの離婚をきっかけに2人の仲は急速に深まり、出会いから10数年を経て2人は結婚する。なかなか子供が出来ないという悩みはありつつも、幸せに暮らしていた2人だったが、2006年7月15日、エマが交通事故で亡くなる。

二人が紆余曲折を経てやっと一緒になれて、よかった!よかった!と喜んでいる矢先にエマは猛スピードで走ってくるトラックにぶつかって死んでしまいます。本当に一瞬の出来事でびっくりしてしまいました。まさかこんな結末になるなんて予想もできず、ただただ、どうして?どうして?と涙が止めどなく出てきました。こんなことが実際にあるだろうか?と思いたくなるような悲しい出来事でした。そんな降って湧いたような不幸を目の当たりにすると思い出す聖書の箇所があります。

聖 書 マタイによる福音書 / 22章

イエスは、また、たとえを用いて語られた。 天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』 しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。 そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

この婚礼にいきなり連れてこられて、礼服を着ていないという理由で外の暗闇に手足を縛られて放り出された人はきっとそんな事態を予想もできなかったと思います。まさか、いきなり連れてこられたのだから、礼服を着る時間の余裕もなく、そんな一方的な理由で手足を縛られて暗闇に放り出されるなんて、まさに降って湧いたような不幸だと思うのです。

降って沸いたような不幸は誰の人生にだって一度や二度は起こり得ることです。

そんな不幸はいつだって一方的なのです。
自分の置かれた状況や環境なんて全く考えてもくれない。
お構いなしである日突然やって来るのです。

ほんの僅かな気の緩みも許されない、厳しく残酷な現実があるのです。 交通事故で亡くなる人は、僅かな気の緩みや油断から事故に遭うのかもしれません。

そして、愛する人を亡くした人は、 何度も、どうしてあの時もっと気を付けなかったのだろうか? たったそれだけのミスでどうして死ななければならないのか? もっと早い段階で正しい選択ができなかったのだろうか?

どうして、こんな不幸がこの自分の身の上に起こってしまったのか? と問い続けるのではないでしょうか。

自分がこんなに苦しんでいるのに、世間は何食わぬ顔していつもと変わらない時を刻んでいる。 他人は、かわいそうだったけれど仕方ないよとか、いつか人間は死ぬものだからとか、あなたがその人の分も生きなければいけない、とか言ってくるかもしれない・・・

でも、そんな理屈で納得できますか? 一生、問い続けるのではないでしょうか。

どうしてあの時・・・・?と。 終わることのない苦しみが続いていくのではないでしょうか。

その様子はまさに暗闇に放り出されて泣きわめいて歯ぎしりをしている姿に重なります。 この聖書は、そんな情け容赦のない現実が実際にあるということを思い出させてくれました。

神は、この厳しい情け容赦のない世界に私たちをお創りになりました。 予想もしなかった悲惨な現実は実際に今もどこかで起こっています。

実は、この世界はキリストがあって初めて均衡を保てるようになっていると思います。 キリストを知らないと、悲惨な現実のみを受け入れなければなりません。 一生、泣きわめいて歯ぎしりをする人生を送らなければならないのです。 この聖書箇所は過激で難解ではありますが、今の私にはそのように思えてなりません。

キリストの存在があってこそ、この悲惨な現実は“あり”なのです。 神はそのようにこの世界を創造されたのだと思います。

キリストとこの世の現実はセットになって初めて一つになる気がします。 セットになって初めて、私は私として生きられるのだと思います。

キリストに出会わなければ、泣きわめき、歯ぎしりする人生は終わりません。 さぁ、キリストを探しに行きましょう。