『会津若松を訪れて』

2013 NHK大河ドラマ『八重の桜』がきっかけに

『八重の桜』の前半は、会津が中心のドラマであったことから、現地を訪れた方からの感想が届きました。その一つをご紹介いたします。

2013 NHK大河ドラマ『八重の桜』がきっかけに

NHK大河ドラマで「八重の桜」が2013年に放映されました。
ドラマの後半は会津から舞台を移し、京都で新島襄と八重の結婚生活が描かれています。新島襄は今の同志社大学を設立したという宣教師です。

この弓町本郷教会とは同志社大学の出身者である海老名弾正が創立した教会です。

また二代目の牧師 横井時雄は、八重の兄である山本覚馬の娘の結婚相手として登場し、新島夫婦、横井夫婦が京都からはるばる会津を訪れる場面もあります。

クリスチャンとして大河ドラマを見ている方は、京都での新島襄がキリスト教学の大学を設立するまでの奮闘ぶりや八重の支えに引き込まれていく方も多いと思います。
私は、その年の3月そして9月に夫とともに会津若松を訪れる機会を得ました。

会津戦争の舞台となった鶴ヶ城や白虎隊が自害したという飯盛山など会津若松は日本が開国するきっかけとなる歴史的ランドマークとして有名です。

幕末の歴史が好きな方は、大河ドラマで松平容保が鶴ヶ城(若松城)の開場に直面するシーンが印象深いという方もいらっしゃるでしょう。

3月に来訪した際は、会津若松は幕末のイメージが強く残った旅となりました。

徳川旧幕府側として戦った八重は兄とともになぜクリスチャンとして導かれていったのでしょうか?新島襄との出会いと熱意がきっかけだったからでしょうか?

なぜかというはっきりとした理由の記録は、残っていないようですが、 会津で生まれて、鉄砲を撃っていた八重や、山本覚馬がその後にクリスチャンとなり、新島襄をきっかけにキリスト教を受け入れていく背景のひとつとして、 9月の会津再訪の際は、その謎の一部が解けるような旅となりました。

戦国時代から安土桃山時代にかけての武将である蒲生氏郷(がもう うじさと)という人をご存知でしょうか?氏郷は、織田信長に見いだされ、信長の娘と結婚もしています。また、会津藩の藩主として西洋の思想や経済にも精通し、定期市の開設や商人の招聘などにより江戸時代の会津藩の発展の礎を築き、自由経済都市として発展させました。

鶴ヶ城は、氏郷の幼名「鶴千代」にちなんで名づけられているそうです。彼は、別名レオ氏郷とも呼ばれるキリシタン大名だったのです。

蒲生氏郷がキリシタン大名であったため、会津藩の3分の1がキリシタンであったという話もあります。さらに、会津周辺の猪苗代や南会津、二本松、福島などにもキリスト教が広まったそうです。

そのため、会津若松にはキリスト教にまつわるものがあちこちに点在しています。

例えば、中心街から離れた川のほとりの寂しい場所にキリシタン塚があります。ここは、1630年代初めに(寛永時代)に幕府の命により、外国の宣教師も含め多くのキリシタン教徒を処刑したところといわれています。

そういった歴史があるからでしょうか?隠れキリシタンの伝説も少なくありません。

昔は天主堂であったと言われる天子神社という名前の神社。寺の前に立つ十字架を持つお地蔵さんなど。その土地にまつわる伝説的な云われも多くあるでしょうが、とても興味深いものでした。

さらに、会津若松は野口英世が医学への道を志した場所としても有名です。野口英世青春通りには、思春期に子供の頃に負った左手のやけどの手術を受け、手術を施した医師に感銘を受け、青春期には医学生として下宿したという記念館もあります。

そして少し歩くと英世が受洗した日本基督教団若松栄町教会もあります。木造の美しい礼拝堂があります。

幕末から明治にかけて激動の時代を生きた山本覚馬、新島(山本)八重、そして近代医学の発展に貢献した野口英世も、何らかの形でキリシタン大名蒲生氏郷の広めたキリスト教に影響された地で育ったに違いありません。

9月の会津若松再訪の旅は、春先に訪れた際の会津若松の幕末の戊辰戦争の時代のイメージが覆され、歴史における点と点が線で結ばれていく体験をし、時代さえも超えていく主の御計画の偉大さを再認識いたしました。

八重が会津で生まれ育ち、会津戦争で負け、兄を頼って京都に渡り、新島襄と出会う。

新島襄とともに設立した同志社で学んだキリスト者たちが東京本郷の地で宣教を始める。そして現代の今日、私はその場所で礼拝を毎週守っているのです。

[参考]
▶キリシタン大名蒲生氏郷について

▶ キリシタン塚について

▶ キリシタンの街会津若松について

▶ 野口英世について